皇国史観(こうこくしかん)その一

統治者の勝手な論理では目的の為にする嘘や無茶は正義で、つまり明治政府は遠く天武帝桓武帝が命じて陰陽修験が為した天孫降臨伝説を皇国史観として再生させ、政治利用した。

皇国史観(こうこくしかん)に関しては、現実の歴史とはかい離した或る種信仰的な要素を含む精神思想である事を前提にしなければ成らない。

また歴史観ではなく、民族の誇りとしての道徳的見地から皇国史観を復活させたい勢力が現在も存在するが、勿論戦後の日本国は自由の国で、皇国史観の精神思想に個人的に誇りを持つのも自由である。

皇国史観の精神思想とは、万世一系の天皇家が日本に君臨する事が「神勅に基づく永遠の正義」として日本の歴史を天皇中心に捉える考え方であり、「天皇に忠義を尽くす事が臣民たる日本人の至上価値である」とする価値判断を伴った歴史観で、皇国史観の先駆は南北朝期に南朝の北畠親房が著した「神皇正統記」がある。

この物語「皇統と鵺の影人」を最初から読んで頂いている方にはお判りと思うが、天孫降(光)臨伝説はあくまでも天武帝が始めて桓武帝が集大成をさせた皇統を正当化する為の古事記日本書紀の神話伝承記録が基に成ったものである。

江戸期になると、徳川光圀(水戸光圀)が創設した藩校・彰考館に拠る「大日本史」の編纂から足利尊氏を逆臣とする水戸学や国学で皇国史観の基礎が作られ、幕末になると尊王攘夷運動の過程でその史観は強化された。

水戸・徳川家が「皇国史観」を取り上げたには、当時の現天皇家が北朝流であり水戸・徳川家が足利尊氏を逆臣として南朝流正統説を唱えるのは「天皇家をけん制する事に目的の一つが在ったのではないか?」と言う見方もある。

明治維新の尊王攘夷運動は、あくまでも江戸・徳川幕府に拠る幕藩体制に不満を持つ薩摩藩長州藩などの下級武士を中心とした勢力が天皇の権威を利用して倒幕の旗印とし、新政府を確立に漕ぎ着けたのが明治維新である。

折りしも欧米列強がアジアの植民地化を進める中、明治新政府は「文明開化」と「富国強兵」を推進する為の「要の精神思想」として「神国日本」を掲げ、万世一系の皇国史観を正統な歴史観として確立して行く。

千八百八十九年(明治二十二年)、野に下った板垣退助らの自由民権運動への対抗もあり、祭政一致をかかげ国家神道を国教とするのを基本政策とし万世一系かつ神聖不可侵の天皇が統治する事を明記した大日本帝国憲法が制定される。

維新後も、千八百八十年代までは記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われ、考古学も発展して教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていたが、千八百九十一年に帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」と言う論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。

帝国憲法制定の翌年(千八百八十九年/明治二十二年)に成ると「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が発布され、国民教育の思想的基礎を創り上げる方向を明確にして行く。

こうした万世一系の皇国史観と教育勅語を基にした戦前の国定歴史教科書は、神武大王の建国につながる日本神話から始まり、天皇を中心に出来事を叙述し、なおかつ歴史上の人物や民衆を天皇に対する忠臣逆臣の順逆で評価し、天皇の気分や天皇の死で変わる元号で時代を区分し教育した。

この戦前の学校教育では、国民の思想教育として宮城遥拝や御真影(天皇の写真)への敬礼も行われ、言わば国民に対して「皇国史観」の思想をアンカリング効果と一貫性行動理論として植えつけたのである。

この風潮は千九百三十年(昭和五年)のロンドン海軍軍縮会議に拠る米英日の三ヵ国で軍備制限条約締結 するなど対外圧力の増加と伴に強まり、第二次世界大戦で極限に達した。

皇国史観(こうこくしかん)その二】に続く。

第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2010-07-07 23:51 | Comments(0)  

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