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武家諸法度(ぶけしょはっと)

千六百年(慶長五年)、関ヶ原の戦いに勝利した豊臣政権五大老の筆頭・徳川家康は、朝廷から源氏の長者と征夷大将軍に任命され、南光坊天海(明智光秀)からの助言の下、いよいよ江戸に江戸幕府を構築し始める。

この頃はまだ一大名(六十五万石)程度に小さくされたとは言え豊臣家も存在し、秀吉恩顧の有力大名も多数残っている。

そこで家康は、徳川家の征夷大将軍職の世襲を世に知らしめる為に将軍職と江戸城を徳川秀忠(とくがわひでただ/二代将軍)に譲り、自分は大御所を名乗って駿府城に隠居、二代将軍・秀忠の後ろ盾を任じながら諸将に睨みを利かせる。

駿府に在った家康は、外交文章や法令に精通して豊臣政権や家康の顧問として文章作成や助言していた臨済宗の僧・西笑承兌(さいしょうじょうたい)の死去に伴い、臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)を招き西笑承兌(さいしょうじょうたい)の後釜に据える。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代に江戸幕府が武家を統制するために定めた法令で、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草し、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い後に武家諸将から誓紙を取り付けた三ヶ条に十ヶ条を付け加え、二代将軍・徳川秀忠が千六百十五年(慶長二十年)七月に伏見城で発布(元和令)された。

その同じ年の同じ月に、二条城に於いて大御所・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、前関白・二条昭実の三名の連署をもって同じく金地院崇伝(こんちいんすうでん)の起草に拠る「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」も公布されている。

十三ヶ条(元和令)だった武家諸法度(ぶけしょはっと)は将軍の交代とともに改訂され、三代将軍・徳川家光が参勤交代の制度や大船建造の禁などの条文を加え十九ヶ条(寛永令)、五代将軍・徳川綱吉はこの十九ヶ条を諸士法度と統合(天和令)している。

その後、六代将軍・徳川家宣が武家諸法度(ぶけしょはっと)を新井白石に改訂(正徳令)させ、七代将軍・家継に引き継がれたが、八代将軍・徳川吉宗が五代将軍・徳川綱吉が定めた「天和令」に戻して改訂の止め置きを命じ、以後これをもって改訂は行われなくなった。

武家諸法度(ぶけしょはっと)は制定されたものの、一旦徳川家康が臣従した主家・豊臣家が存在すれば、豊臣家の政権擁立の一定の理由が存在する事になる。

徳川家康は豊臣家との最終決着大坂の役を、謀略・方広寺鐘銘事件を引き起こす事になる。

禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-07-19 16:24 | Comments(0)  

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