金地院崇伝(こんちいんすうでん)
金地院崇伝(こんちいんすうでん)は徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり外交関係の書記を務め、やがて幕政にも参加するようになる。
閑室元佶や板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係する。
崇伝(すうでん)は、徳川家のブレーンとして豊臣家との決着の戦いである大坂の役の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与している。
その後の崇伝(すうでん)は、千六百十六年(元和二年)家康の死去に拠る神号を巡り南光坊天海と争い、天海(てんかい)は「権現」を、崇伝は「明神」として祀る事を主張する。
実は崇伝(すうでん)の主張には根拠があり、徳川家の公称・源氏流はともかく元の松平家の賀茂流であれば家康の祭祀は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、「明神」が正しいからである。
崇伝(すうでん)は「明神」として祀る事を主張するが、天海(てんかい)は源氏流が征夷大将軍の任命条件であるを持って賀茂流の「明神」は不適切と譲らず、最終的には天海の主張する「権現」に決定する。
これはもしかしたらの話であるが、二代将軍・秀忠、南光坊天海、春日局の三人が実は明智流のトリオで在ったのなら源氏流で、賀茂流の「明神」は強行に反対するから金地院崇伝(こんちいんすうでん)には最初から勝ち目は無かった事になる。
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