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幕藩体制(ばくはんたいせい)

江戸期の領主の支配地を「藩(はん)」と呼び、その藩(領主の支配)を統括する幕府(将軍)と言う封建的主従関係を、歴史学上は近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)と呼称使用されている。

藩(はん)は、江戸時代に一万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域とその支配機構を指す歴史用語で、実は江戸期に於いての公的な制度名では無い。

昔の主従関係には思想的に家族主義が在り、鎌倉期の御家人呼称で判るように棟梁には一家内一族の生活を支える責任の側面が在った。

江戸期の中期頃までは徳川家の直参家臣は御家人で、各大名諸侯の家臣は藩士では無く家中の家来と呼んでいた。

つまり武士道は、一家内一族の生活を支える棟梁側の責任を前提とするもので、その一方が欠けた精神論だけにしてしまったのは明治政府の皆兵政策からである。

「藩(はん)」と言う呼称は江戸期の一部の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来して使用したもので、元禄年間以降に新井白石などの書に散見される程度だった。

新井白石が幕臣に編入されたのは千七百九年、徳川光圀が亡くなったのが その八年前の千七百一年であるから、水戸黄門漫遊記で「**藩や**藩々藩主」と言う台詞は公的な制度名でも一般的に使用されてもいなかったから、時代考証的には正しくは無い事になる。

江戸期に於ける「藩(はん)」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称された事は無く、「**家中」のような呼称が用いられ、例えば加賀前田氏は将軍家から松平を賜り名としていたから松平加賀守家中が加賀前田藩の公式呼称である。

通常会話に於いての領主の呼称については、「**藩々主」とは呼ばず封地名に「侯」を付けて「紀州侯」、「尾張侯」、「仙台侯」、「薩摩侯」、「加賀侯」と言った呼称が一般的だった。

藩士の呼称についても、江戸期於いては「仙台藩々士」とはほとんど言わず、公的には仙台藩伊達氏は将軍家より松平姓を賜っていたから仙台藩々士は「松平陸奥守家来」と称されのが通常だった。

但し、幕末になると大名領を「藩(はん)」と俗称する事が多くなった為、幕末時代劇の台詞では「藩(はん)」を多用しても時代考証的に可である。

つまり通りが良いので本書でも便宜的に使用しているが、幕藩体制(ばくはんたいせい)も「藩(はん)」も明治期に入り公称と成って一般に広く使用されるようになったもので、江戸期に於いて「藩(はん)」と言う呼称自体が一般的に使用されていた呼称では無いのである。

戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として幕藩体制(ばくはんたいせい)が使われるに到ったのである。

版籍奉還(はんせきほうかん)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-07-26 00:38  

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