日清戦争(三)征韓論と「明治六年の政変」

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千八百六十八年(明治二年)に始まった朝鮮・李氏王朝との国交々渉が進展しない事に業を煮やした明治政府内で、武力による開国を迫る所謂(いわゆる)征韓論が台頭する。

元々尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与えた吉田松陰は、幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への武力侵略統治論を展開していた。

ちょうど明治政府は、右大臣兼外務卿・岩倉具視を正使とし、副使に木戸孝允(桂小五郎)大久保利通伊藤博文山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)ら総勢百七名に及ぶ岩倉使節団(いわくらしせつだん)を明治四年から明治六年まで、欧米諸国に派遣していた時期とこの征韓論が重なっていた。

その政府主力の多くを欠く千八百七十三年(明治六年)、岩倉使節団(いわくらしせつだん)の帰国前の留守政府閣議に於いて、参議・板垣退助が交渉の行きづまりを打開するため陸軍一大隊の朝鮮への派遣を主張する。

板垣退助の陸軍派遣案に対し、西郷隆盛は使節の派遣案と自らその職への任命を主張するもその後、岩倉具視が帰国し内治優先の立場から使節派遣に反対の上奏をして明治天皇の裁可により派遣延期となる。

正直、大久保利通(おおくぼとしみち)の本音を言うと、西郷隆盛が砲艦外交ではな無く「穏やかに交渉する」と言っても軍を統括する元帥(後に廃止した為大将)である西郷が交渉して李氏・朝鮮に突っぱねられれば面子が無くなる。

そうなれば国論が板垣の言う「開戦は止むを得ない事になる」と言う「危惧」が、「西郷自らの使節派遣案には在る」と大久保は結論着けたのである。

この決定に、西郷隆盛が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、既に宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。

翌日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷の朝鮮国派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。

この時、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されず、岩倉・木戸・大久保らは、これらを許可しない事で、西郷ら遣韓派をいずれ政府に復帰させる意図がある事を示したとされる。

この明治天皇の裁可を切欠に、参議・西郷隆盛、江藤新平板垣退助らが辞職する世に言う「明治六年の政変」と呼ばれる事態となり、大久保達使節帰国派は、これ以降政府の実権を握る事になった。

所謂(いわゆる)「征韓論」に対しては、大久保らも交渉決裂に際する朝鮮半島での武力行使の方針自体には「反対ではなかった」とされ、欧米諸国の先進発展の現実を知るが故の内治優先主張と解されている。

この征韓論には、千八百七十一年(明治四年)の廃藩置県によって武士としての職を失った士族の不満が背景にあり、以後千八百七十三年(明治六年)徴兵令公布、千八百七十六年(明治九年)廃刀令、秩禄処分に至る過程で士族反乱が相次ぎ明治政府はこうした不満を「海外に逸らす思惑も在った」と見られる。

そしてこれは憶測の域を出ないが、とにかく西郷は「それで良かごわす」が口癖である。

維新後、明治政府の担当官が西郷吉之助・隆永の名を父親の名・隆盛(たかもり)と間違えて政府参議の登記したのを後で知った時も「それで良かごわす」、鹿児島私学校の職員・生徒が負けると判っている西南戦争(西南の役)を起こした時も「それで良かごわす」と、名前にも生死にも拘らなかった。

その西郷隆盛が他に何か別の目論見が無くて、「征韓論にだけ拘った」とは、とても思えない。
となると、その真相こそが西南戦争(西南の役)の本当の蜂起理由かも知れない。

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by mmcjiyodan | 2010-08-09 22:44 | Comments(0)  

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