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日清戦争(四)台湾出兵

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千八百七十一年(明治四年)に琉球船が難破し台湾南部へ漂着した際、先住民による琉球島民殺害事件(牡丹社事件/ぼたんしゃじけん)が発生していたが、明治政府はそれを解決できないまま数年が経過していた。

この琉球島民殺害事件に対して旧薩摩藩出身者を中心に台湾出兵が建言され、征韓論派下野の後、政府は内務卿・大久保利通の主導の下、派兵を決定する。

千八百七十四年(明治七年)、台湾蕃地事務長官に大隈重信、同都督に陸軍中将・西郷従道を任命して出兵準備をさせた。

兵力は二個大隊(三千名)であり、内鎮台兵(正規兵)は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたもので、言わば失業士族の雇用対策の面も在った。

しかし英国や米国の反対圧力と局外中立の表明及び征韓論にも反対していた参議・木戸孝允が征韓論を否定して置きながら、同じ海外である台湾に出兵するのは「矛盾している」と反対、参議の辞表を提出して下野してしまう。

木戸孝允の反対と辞任により政府は一旦台湾出兵の中止を決めるが、西郷従道が征討軍を長崎から出航させると大久保利通もこれを追認し、日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領する事となった。

日本軍は台湾先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は十二名で在ったが、年末までの駐屯でマラリア等による病死者が五百名を超える大事態となった。

この台湾出兵は近代日本初の海外出兵で在ったが、清帝国側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。

明治政府は撤兵交渉決裂の場合の清帝国との開戦も決し、「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末英国の仲介もあり清帝国は日本の出兵を「義挙」と認め、五十万両(テール)の賠償をする事で政治決着、植民兵は撤兵した。

この台湾出兵は琉球の帰属問題で日本に有利に働き、明治政府は翌千八百七十五年(明治八年)琉球に対し清帝国との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清帝国との関係存続を嘆願、清帝国が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着は着かなかった。

また清帝国は以後日本の清帝国領土簒奪への警戒感を持ち北洋艦隊建設の契機ともなっている。

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by mmcjiyodan | 2010-08-09 22:46  

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