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日清戦争(十)本格陸海大戦と終結

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日清戦争開戦・豊島沖海戦の後、七月の末、日本軍は陸上でも成歓で清国軍を破り、九月の平壌の陸戦、続く黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧した。

尚、豊島沖海戦は、猶予付最後通牒への返答がないまま期限が切れてまだ互いに宣戦布告はなされていない早朝、両国海軍の開戦準備途中の第一遊撃隊(司令官 坪井航三少将)旗艦・吉野(よしの)、秋津洲(あきつしま)、浪速(なにわ、艦長 東郷平八郎大佐)の三艦が航行時に防護巡洋艦 ・済遠(ツアィエン/さいえん)、巡洋艦・ 広乙の二艦と遭遇し砲撃を交わした。

その海戦中に、清国側は砲艦・操江及び商船「高陞」(船長 トーマス・ライダー・ゴールズワージー)の二艦が合流するも、済遠が大破、広乙と高陞は撃沈、操江は鹵獲(ろかく=接収/せっしゅう)された。

黄海海戦(こうかいかいせん)は千八百九十四年(明治二十七年)九月中旬に日本海軍連合艦隊と清国北洋艦隊の間で戦われた海戦で、初めて近代的な装甲艦が実戦に投入された戦いとしても知られ鴨緑江海戦とも呼ばれる。

この海戦では艦の速度が重要な決め手と成り、速度に勝る日本海軍が終始有利な戦いを進め、結果、清国北洋艦隊は経遠、致遠、揚威、超勇、広甲の五隻の巡洋艦を沈没で失う大損害を受けて無力化し制海権を失った。

日本海軍側の艦船に沈没艦はなかったが、但し旗艦の巡洋艦・松島、巡洋艦・比叡、仮装巡洋艦・西京丸、砲艦・赤城の四隻が大破している。

十月に入り、日本軍の第一軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡河して清帝国の領土に入った頃、第二軍も清帝国の領土・遼東半島に上陸を開始しする。

大本営の命令の下糧食不足と耐寒軽装備での冬の行軍に苦しみながらも、約一万二千の清軍の内九千人が新募兵と士気などが低い事もあり、十一月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領した。

この旅順攻撃軍には、第一旅団を率いる乃木希典(のぎまれすけ)少将の姿も在った。

思えばこの日清戦争勝利経験が、その後の大本営の現場実状を無視した無茶な作戦立案の基に成ったのかも知れない。


旅順攻略戦に於ける日本側の損害は戦死四十名、戦傷二百四十一名、行方不明七名に対して、清国は四千五百名の戦死、捕虜六百名を出して敗退する。

この一連の陸戦に於いて、終始日本軍が優位に立ったには国産化小銃・田村銃の存在がある。

欧米の軍事的脅威を感じた日清両国は欧米からの武器輸入を進めていたが、日本の場合は旧藩がそれぞれの基準に拠ってバラバラに輸入を行った為に統一性を欠く装備で弾薬の補給やメンテナンス面でも支障をきたしていた。

慌てて軍の近代化を進めた清帝国も銃装備は同様にバラバラで在ったが、日本では千八百八十年(明治十三年)に日本陸軍の村田経芳が日本で最初の国産小銃の開発に成功する。

日本陸軍はこれを村田銃と命名し改良を進めながら全軍の小銃の切り替えを進め、同銃が全軍に支給されて行く過程で日清戦争に突入した。

日清戦争当時、村田銃の最新型が全軍に行き渡っていた訳ではなかった。

だが、弾薬や主要部品に関しては新旧の村田銃の間での互換性が成り立っていた為、弾薬などの大量生産が行われて効率的な補給が可能と成っていたのに対し清国陸軍では小銃の混在状態が続いて居て、部品の補給などに手間取るなどの混乱が生じて劣勢に終始したのである。

翌千八百九十五年二月、清帝国の北洋艦隊の基地である威海衛(ウェイハイウエ)を日本軍が攻略し、三月には遼東半島(リャオトンバンタオ)全域を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。

台湾取得の準備として陸海軍は、共同で台湾海峡にある海上交通の要衝、澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領する。

司令長官・伊東祐亨中将率いる南方派遣艦隊の旗艦・吉野が座礁し予定より到着が遅れ、派遣約六千二百名中の約千二百六十名もの病死者を出すコレラ発生に苦しんだものの、三月下旬混成支隊が澎湖列島に上陸を果たす。

この段階に至り、千八百九十五年(明治二十八年)三月中旬、劣勢の清帝国は漸く休戦・講和に動き、李鴻章(リホンチャン)全権大使が門司に到着した。

下関での交渉の席上、李は、日本側の台湾割譲要求に対し、「日本軍は台湾本土に入っておらず筋が通らない」と大いに反論するも交渉中の李全権大使が五日後に日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、慌てた日本側が早期決着に動いた。

その為、台湾と澎湖列島を除く一時的な休戦に合意し、翌四月中旬日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(二億両/約三・一億円)、日本に最恵国待遇を与える等が決まり五月初旬に清帝国の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。


日清戦争(にっしんせんそう)は、日本での正式名称は明治二十七~八年戦役(めいじにじゅうしちはちねんせんえき)と呼び、戦争期間が十ヵ月、日本の戦費総額は日本円で三億円、死者一万三千人を費やした戦役である。

千八百九十四年(明治二十七年)七月から翌千八百九十五年(明治二十八年)四月にかけて行われた主に朝鮮・李氏王朝の利権をめぐる日本と清帝国の戦役で、一部の朝鮮王朝の権力者が己の権力の為に日清両国の後押しを利用したに過ぎず、朝鮮国民の望むものではなかった。

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by mmcjiyodan | 2010-08-16 01:55  

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