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小松帯刀(こまつたてわき・清廉/きよかど)

幕末の薩摩藩重臣家格藩士として有名な小松帯刀(こまつたてわき)の本名乗りは小松清廉(こまつきよかど)である。

また小松帯刀(こまつたてわき・清廉/きよかど)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。


清廉(きよかど)は島津家一族及び重臣の十七家から構成される薩摩藩重臣家格・一所持(いっしょもち)領主の一家・喜入領(五千五百石)領主・肝付兼善(きもつきかねよし)の三男として薩摩国鹿児島城下の喜入屋敷に生まれる。

このめずらし肝付(きもつき)氏の本姓は伴(大伴)氏で、古代の大豪族の末裔でもある。

肝付清廉(きもつききよかど)が小松氏を名乗ったには、清廉(きよかど)が二十一歳の時に同じ一所持(いっしょもち)領主家・吉利領主(二千六百石)・小松清猷(こまつきよもと)の跡目養子となって小松家々督を継承し、宮之原主計(みやのはらもんど)の養女となっていた清猷の妹・千賀(近)と結婚したからである。

小松氏の本姓は、平惟盛(たいらのこれもり)入婿により建部氏より平氏に改姓されたとされ、家系は禰寝(ねじめ)氏嫡流の小松氏当主の家系を名乗っていた。

建部氏(たけべし)は日本の古代氏族の一つで、古代大和朝廷から各地に配置された屯田兵のような軍事集団が興りとされ、禰寝氏(ねじめし)は大隅国の有力国人領主、戦国大名、島津氏との領土争いを経て薩摩藩士と成った家系である。

また、同じ薩摩藩士から明治期の軍人・政治家として名を成した山本権兵衛(やまもとごんべい)も、禰寝氏(ねじめし)流建部氏(たけべし)から山本と姓を改めて島津氏に仕えた土豪一族である。

結婚して二年目の千八百五十八年(安政五年)、小松清廉(こまつきよかど)は小松帯刀清廉(こまつたてわききよかど)と改名、以後は小松帯刀(こまつたてわき)が一般的に通り名となる。

長崎で洋学を学んだ小松帯刀(こまつたてわき)は西郷隆盛(隆永)依りも七歳年下で、島津斉彬(しまづなりあきら)に見出された隆盛(隆永)依りも少し遅れ、島津久光に才能を見出されて側近となり大久保利通と共に藩政改革に取り組んだ。

島津久光に嫌われた西郷隆盛(隆永)を、藩の逸材として再び登用するように進言したのはこの帯刀(たてわき)だった。

帯刀(たてわき)は久光に拠る上洛に随行し、帰国後は家老職に就任し薩摩藩の近代化に力を注ぐ一方、西郷隆盛(隆永)の力量を認めて不仲である島津久光との仲を取り持ち、隆盛(隆永)の活躍の場を創った。

薩英戦争(さつえいせんそう)後、小松帯刀(こまつたてわき)は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し主に朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席し、一方で藩要職を兼務して藩政をリードしている。

薩摩藩家老職に就任した帯刀(たてわき)はその権限を十二分に発揮し、一所持(いっしょもち)領主としての私財も投入して多くの倒幕派浪士を支援し、西郷・大久保などの活躍も帯刀(たてわき)在ればこそだった。

在京中の帯刀(たてわき)は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬(あかもとりょうま)と昵懇となり、亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したりその妻であるお龍の世話もしている。

帯刀(たてわき)は長州藩の井上馨伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、井上を伴って鹿児島へ行き薩長同盟の交渉を行った。
なお薩長同盟に於ける密約や桂小五郎(木戸孝允)が滞在した場所も、京都に於ける帯刀(たてわき)の屋敷で在ったと伝えられる。

千八百六十七年(慶応三年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に帯刀(たてわき)は関与し、討幕の密勅では請書に、西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。

大政奉還発表の際、帯刀(たてわき)は薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政・二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。

帯刀(たてわき)は、西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主・島津忠義の率兵上洛を主張し、認められて上洛の随行が命じられるも帯刀(たてわき)は病によりこれを断念している。

維新の新政府に於いて帯刀(たてわき)は、病を圧して総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任し、旧幕府の対フランス借財処理など当面する対外事案を処理するも病の悪化により依願退職する。

退職後の療養中も、帯刀(たてわき)は版籍奉還で率先して自らの領地を返上して範を示し、久光の版籍奉還を説得するも、千三百七十年(明治三年)三十六歳の若さで大阪にて病死した。

いずれにしても、明治維新に到る歴史的過程で小松帯刀(こまつたてわき・清廉/きよかど)が果たした役割と影響は、世間に知られている以上に少なくはない。

帯刀(たてわき)が健在なりしば、その後に西郷達鹿児島士族が起こした西南の役も押し止められたかも知れない。

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by mmcjiyodan | 2010-09-04 21:41  

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