生麦事件(なまむぎじけん)と薩英戦争(さつえいせんそう)

千八百六十三年(文久三年)、英国艦隊が生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入するも薩摩藩はこれに応じず薩英戦争が勃発する。

生麦事件(なまむぎじけん)は、幕末の千八百六十二年(文久二年)八月に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を、供回りの藩士が無礼を咎め殺傷した事件である。

生麦事件当時の薩摩藩行列のには一行の中には、後に維新の立役者となる大久保利通もいた。

この時には、後に新政府で力を発揮した二十二歳の黒田清隆(くろだきよたか)が随行の一人として生麦事件に居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたと言う。

薩英戦争(さつえいせんそう)に於ける 薩摩藩側は人的損害は非戦闘員の死者九名、負傷者十八名であったが、砲撃・ロケット弾攻撃により物的損害は鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、民家三百五十余戸、藩士屋敷百六十余戸、藩汽船三隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)、民間船五隻が焼失と甚大であった。

薩摩藩の陸上砲台による英国艦隊の損害は、大破一隻・中破二隻の他、死傷者は六十三名(旗艦ユーライアラスの艦長・副長の戦死を含む死者十三名、負傷者五十名程)に及んだ。

英国側旗艦ユーリアラスの被害の中には、薩摩側の攻撃によるものではなく、アームストロング砲の暴発事故によるものもあったが英国海軍は薩摩によるものとして賠償要求に含めている。

薩摩藩は薩摩側の民間人を含む死傷者九名に対して英国側の軍人死傷者六十三名とかなりの善戦をし、鹿児島城下に大きな被害を受けるも、この戦いにより英国は薩摩の戦力を認め、徳川幕府側との交渉を避け薩摩との直接の和平を結ぶ。

結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能である事を理解し英国は幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。

この薩英戦争の経験を経て、薩摩藩は攘夷から倒幕へと舵を切り、土佐の脱藩浪士・坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋を受けて敵対していた長州藩と手を結ぶ「薩長同盟」を選んだ。

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by mmcjiyodan | 2010-09-06 20:13 | Comments(0)  

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