下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)

千八百六十三年(文久三年)五月、尊皇攘夷を主導していた長州藩孝明天皇の意を受けて攘夷を決行する。

長州藩が攘夷実行と言う大義の下に馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加え、アメリカ商船ベンプローク号、フランスの通報艦キャンシャン号、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号を次々に砲撃し損傷を与える。

しかし約半月後の六月、報復に向かった米仏艦隊の攻撃によって長州藩は馬関海峡内に停泊中の長州軍艦に壊滅的な手痛い打撃を蒙るも、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行する。

当時イギリスに留学していた長州藩士伊藤俊輔井上聞多は四国連合による下関攻撃が近い事を知らされ、戦争を止めさせるべく急ぎ帰国して勝てない戦争の回避を進言するも強硬論が強く徒労に終わっている。

長州藩は八月十八日の政変後も攘夷の姿勢を崩さなかった為、千八百六十四年(元治元年)七月、さらにイギリス軍艦九隻(砲164門)、フランス軍艦三隻(砲64門)、オランダ軍艦四隻(砲54門)、アメリカ仮装軍艦一隻(砲4門)からなる艦船十七隻の四国連合艦隊の攻撃に合い長州は大損害を蒙って講和する。

この長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた前後二回にわたる武力衝突事件で、馬関戦争(ばかんせんそう)とも言う。

この下関戦争の経験を経て、長州藩は攘夷から倒幕へと舵を切り、土佐の脱藩浪士・坂本龍馬中岡慎太郎の斡旋を受けて敵対していた長州藩と手を結ぶ「薩長同盟」を選んだ。

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by mmcjiyodan | 2010-09-06 20:15 | Comments(0)  

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