桂小五郎(かつらこごろう/木戸孝允)・その(二)

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桂小五郎(かつらこごろう)は、藩論をまとめて長州藩から英国への秘密留学を実行に漕ぎ着け、井上馨(聞多)伊藤博文(俊輔)、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の五名を藩の公費で留学させる。

藩政府中枢に加わった小五郎は京に上洛し長州代表の一員として朝廷をめぐる政治活動をするも、会津藩預かりの新選組に拠る池田屋事件など勤皇派と佐幕派の朝廷をめぐる争いは激化して行く。

小五郎は当時としては長身の大男で神道無念流剣術の免許皆伝を得て剣豪と称されたが、一方で在京中は武力闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。

京都で久坂玄瑞、真木和泉たちとともに破約攘夷活動を行い、新選組の池田屋襲撃事件では運良く外出していて奇跡的に難を逃れている。

八月十八日の政変(七卿落ち)が起こり、長州藩と長州派公卿が京都から追放されるが、小五郎は危険を顧みず京都に潜伏し続け、長州および長州派公卿たちの復権の為に久坂らと伴になおも活動をし続けている。

八月十八日の政変から禁門の変に到る動乱の中、小五郎は京に在って政治活動を継続するも長州藩兵が敗れて敗走し、潜伏生活を余儀なくする。

朝敵となって敗走した長州藩に対し、更に第一次長州征討が行われようとした時点で、長州正義派は藩政権の座を降り不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑と言う対応で長州藩は責任を取った。

その後、長州俗論派政権が正義派の面々を徹底的に粛清し始めたが、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻し、軍事クーデターが成功し俗論派政権による政治が終わりを告げる。

この後、桂小五郎がどこかに潜伏しているらしい事を察知した高杉晋作・大村益次郎達に拠って探し出され、小五郎は長州正義派政権の統率者として迎えられる。

長州政務の座に入ってからの小五郎は、高杉達が所望する武備恭順の方針を実現すべく軍制改革と藩政改革に邁進する。

桂小五郎と坂本龍馬とは、慶応元年から慶応三年にかけて頻繁に会談していた。

土佐藩の土方楠左右衛門・中岡慎太郎坂本龍馬らに薩摩藩との薩長同盟を斡旋され、長州藩は桂小五郎を代表として交渉、秘密裏に同盟を結ぶ。

千八百六十六年(慶応二年)に京都で薩長同盟が結ばれて以来、桂小五郎は長州の代表として薩摩の小松帯刀大久保利通西郷隆盛黒田清隆らと薩摩・長州でたびたび会談し、薩長同盟を不動のものにして倒幕の立役者に名を連ねて行く。

薩長同盟の下、長州は坂本龍馬を介して薩摩名義でイギリスから武器・軍艦を購入し、新しい様式軍備を整える事が出来た。

幕府側(会津藩・新撰組)は、長州藩の武備恭順や大村益次郎達に拠る武器や艦船を購入の秘密貿易を口実として第二次長州征討(四境戦争)を強行して来るも大島口・芸州口・石州口の三ヵ所で極めて短期間の内に幕府軍を撃破し、残りの小倉口も戦意喪失により長州側の勝利が確定する。

その後、十五代将軍・徳川慶喜大政奉還戊辰戦争の端緒となった鳥羽伏見の戦い江戸無血開城などを経て木戸孝允(桂小五郎)は維新政府の成立を迎えている。

維新成功後の木戸孝允(桂小五郎)は、新政権副総裁の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ唯ひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。

太政官制度の改革後は参議に昇り、外国事務掛、参与、文部卿などを兼務して五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立などを提言し実施させた。

新政府内で西郷隆盛を凌ぐ力を着けた木戸孝允(桂小五郎)は、幕末以来の宿願である開国・破約攘夷つまり不平等条約の撤廃と対等条約締結の為に岩倉使節団の全権副使として欧米を回覧する。

岩倉使節団では、条約の撤廃予備交渉と欧米視察を進め欧米の進んだ文化だけでなく民主々義の不完全性や危険性をも洞察して帰って来る。

しかし帰朝後は、使節団での無理が祟ったのか原因不明の脳発作のような持病が一気に再発・悪化し始め、その持病の為か以後の孝允(小五郎)は本格的に明治政府を取り仕切れなくなって行く。

木戸孝允(桂小五郎)が見聞した欧米と日本との彼我の文化の差は余りにも甚だしかった。

それ故に孝允(小五郎)は、過っての征韓論などは引っ込めて内治優先の必要性を痛切に感じ、憲法の制定、二院制議会の設置を積極的に訴え、国民教育の充実、天皇教育の充実に積極的に取り組み、後に文部卿に自ら就任したのは国民教育を充実させる事を目指したもので在った。

使節団留守組の西郷隆盛らが主張する征韓論や大隈重信や西郷従道らが主張する台湾出兵には、孝允(小五郎)は一貫して反対している。

また、孝允(小五郎)は農民を不公正な税制と重税から解放するために積極的に推し進めた地租改正や、武士の特権を廃止して彼らに新たな生活の途を探させる為の手段として構想された秩禄処分が実行された時にはこれに激しく反発した。

そして孝允(小五郎)は、台湾出兵が決定された千八百七十四年(明治七年)五月には、これに抗議して参議を辞職している。

西南戦争が勃発すると、孝允(小五郎)は鹿児島征討の任にあたりたいと希望も反対に遭い明治天皇とともに京都へ出張するもかねてから重病化していた病気が悪化し、明治政府の行く末と西郷隆盛の双方を案じつつ四十五歳でこの世を去った。

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詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2010-09-07 17:49 | Comments(0)  

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