遣唐使(けんとうし)

六百十九年、中華大陸の隋帝国が滅び唐帝国が建った為、派遣していた朝貢使の名称も遣唐使(けんとうし)に代わる。

留意して欲しいのは、日本側ではこの唐代の朝貢使に於ける名乗りは「日本国(ひのもとのくに)」であり、けして「倭国」と言う名称は使ってはいない。

「倭国」は、あくまでも六百十八年の唐の成立から九百七年の滅亡までについて書かれている中華大陸側の中国五代十国時代の後晋出帝の時に編纂された歴史書「旧唐書」記されている名称である。

中華大陸側の「旧唐書」には「倭国日本伝」、宋代になって編纂された正史書「唐書(新唐書)」に於いては「日本伝」としての記載がある。

日本側の朝貢使派遣の目的は、海外情勢や当時の先進国で在った中華大陸・唐帝国の文化や制度の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされ、六百三十年の第一次朝貢大使・犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)一行の派遣によって始まり、八百九十四年に菅原道真の建議により停止されまで約二百六十年間続いている。

「約二百六十年間続いた」と言っても不定期で、「唐書」の記述が示すように遠国である倭国の朝貢は「毎年でなくて良い」とする措置がとられた。

「旧唐書・倭国日本伝」には「太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。」と記述され、「唐書(新唐書)日本伝」には「帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。」とある。

以来遣唐使(けんとうし)は、「二十年一来(二十年に一度)」の朝貢が八世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で朝貢使の派遣が行われた。

遣唐使船 (けんとうしせん)には大使・ 副使 (ふくし) の他、官僚養成大学が無かったので留学生(りゅうがくせい)や留学僧 (りゅうがくそう)が四艘の船で一艘当たり百人、計四百人ほどが乗り込み渡海 (とかい)に臨んだ。

遣唐使船は竜骨を用いない平底のジャンク船に似た箱型構造で、簡単な帆を用い横波に弱く無事に往来出来る可能性は低いもので在った為、遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海だった。

遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたが、朝貢の使いであると言う性格上、唐帝国の元日朝賀に出席するには十二月までに唐の都へ入京する必要が在り、気象条件の悪い六月から七月頃に日本を出航すると言う最悪の条件だった。

勿論国家を挙げての派遣事業であるから経費の面でも情報の迅速化の面でも遅滞は許されず、朝貢後の帰り船も気象条件の良くない冬の季節に帰国せざるを得なかった為、渡海中の水没・遭難が頻発した。

八世紀の遣唐使の内、遣唐使船が四隻全ての船が往復出来たは「たった一回だけ」と言う危険な渡航だったので遣唐大使に任命されても嫌がって拒否する者もいた。

この遣唐使の歴史に於いて日本史上に大きな足跡を残したのは、多治比県守(たじひのあがたもり)を遣唐大使とする一行に遣唐留学生・吉備真備(きびのまきび)阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)が居た事である。

大使・多治比県守(たじひのあがたもり)には真人(まひと)の姓(かばね)が見られ、天皇・皇子の子孫に当たる「高級官吏級が大使を任じた」と思われる。

右大臣・中衛大将にまで昇り詰めた吉備真備(きびのまきび)は、七百十六年、二十二歳の時に遣唐使の遣唐留学生となり、翌年の七百十七年(養老元年)に入唐した。

その帰朝後、学識を買われて真備(まきび)は登用され、従四位上・右京大夫と言う高級官吏に昇った真備(まきび)は、聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)や光明皇后(藤原光明子)の寵愛を得て大王(おおきみ/天皇)の娘・阿倍内親王(あべのないしんのう)に東宮学士として「漢書」や「礼記」を教授した。

七百五十一年、五十七歳の時に真備(まきび)は遣唐副使となり翌年には再び入唐し、帰朝後出世を重ねて右大臣・中衛大将にまで昇り詰めた遣唐使の優等生だった。

真備(まきび)と伴に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は十九歳で遣唐留学生に選ばれた秀才で、日本人でありながら超難関の「科挙の試験」に合格して登用され、玄宗皇帝に重く用いられた人物である。

吉備真備(きびのまきび)の二度目の入唐の折には、仲麻呂(なかまろ)は「相当の便宜をはかり支援した」とされている。

また遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)は、帰朝後当時流行した病に最高実力者・藤原氏一族の主だった四人(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで逝去するに付け入って聖武天皇生母である皇后宮・藤原宮子(藤原不比等の娘)の「病状を回復させた」として「僧正」称号を得る。

皇后宮・藤原宮子は玄昉(げんぼう)僧正を寵愛し、為に真備(まきび)と玄昉僧上(げんぼうそうじょう)を除く事を名目に大宰府で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ/藤原式家・藤原宇合の長男)が反乱を起こしている。

尚、この遣唐使、八百年代初頭・桓武天皇の御世、八百四年派遣の朝貢使・藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ/藤原北家・正三位中納言)を遣唐大使、橘逸勢(たちばなのはやなり)を遣唐副使とする一行の中には、遣唐留学僧・最澄、同・空海が居た。

遣唐留学僧・最澄(伝教大師)、同・空海(弘法大師)は僅か一年(渡航期間を入れて二年)の唐滞在だったが、新しい仏教の教義と多くの書物を日本にもたらせ、その後の日本史に大きな影響を与え続けた。

九百七年(延喜七年)には中華・唐帝国が滅亡し、遣唐使は再開されないままその朝貢使の歴史に幕を下ろしている。

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by mmcjiyodan | 2010-09-22 19:29 | Comments(0)  

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