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乃木希典(のぎまれすけ)その(二)

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千八百七十一年(明治四年)従兄弟の御堀耕助を介して知遇を得た黒田清隆の推挙に依り、乃木希典(のぎまれすけ)は新政府に出仕、陸軍へ入隊するにあたり異例の陸軍少佐に任官する。

千八百七十二年(明治五年)二月、東京鎮台第三分営大弐(だいに・司令官)心得を拝命、翌千八百七十二年(明治六年)四月、名古屋鎮台大弐心得、翌千八百七十三年(明治七年)九月、陸軍卿伝令使(陸軍大臣の秘書兼副官)を歴任、千八百七十四年(明治八年)十二月熊本鎮台小倉第十四連隊長心得に昇格する。

僅か二十七歳の陸軍少佐・乃木希典(のぎまれすけ)が第十四連隊長心得として小倉に赴任すると、旧秋月藩の士族約四百名が千八百七十六年(明治九年)に福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ「秋月の乱」が勃発するも、希典(まれすけ)はこれを鎮圧する。

翌千八百七十七年(明治十年)、西郷隆盛・鹿児島私学校の若者達が下野していた隆盛を盟主に担ぎ出して西南戦争が勃発する。

希典(まれすけ)は小倉第十四連隊長心得として西南戦争に従軍するも、初戦時の退却の際に連隊旗を保持していた兵が討たれ、連隊旗を薩摩軍に奪われてしまう失態を犯す。

まだ「官軍・錦の御旗」の意識が強い時代に、お上(天皇陛下)から給わった軍旗(連隊旗)の紛失は希典(まれすけ)の意識では「死んで詫びねばならないもの」だった。

希典(まれすけ)は自責の念から、戦死を望むかのような蛮戦を繰り返し、負傷して野戦病院に入院しても脱走して戦地に赴こうとした。

退院後、希典(まれすけ)の行動に自殺願望をみた山縣有朋児玉源太郎など周囲が謀って第一線指揮から離して熊本鎮台の参謀としている。

希典(まれすけ)は、官軍の実質的な総指揮官であった山縣有朋に待罪書を送り連隊旗紛失に対する厳しい処分を求めるも、連隊旗紛失後の奮戦も含め、自ら処罰を求めた行動は潔いと好意的に受け止められ罪は不問とされた。

所が、ある日希典(まれすけ)が割腹自決を図り児玉に取り押さえられると言う「事件があった」とされ、希典(まれすけ)は不問の処分を納得して居なかったようである。

それにしても、連隊旗を失うと言う恥辱もさる事ながら、一連の士族争乱は乃木希典(のぎまれすけ)にとって実に辛い戦争であった。

萩の乱では実弟・玉木正誼(たまきまさよし)が敵対する士族軍について戦死している。

正誼(まさよし)は、萩の乱首謀者・前原一誠の密命密命を帯びて兄・希典を訪ねて来て士族軍に付くよう何度も説得していた。

さらには、師であり、正誼の養父でも在った松下村塾の創設者・玉木文之進が、萩の乱に正誼と弟子らが参加した責任を感じて切腹した。

西南戦争後、希典(まれすけ)は中佐に昇任されるが自分を責め、精神的に不安定な状態となり放蕩の日々を送るようになる。

この後、希典(まれすけ)の放蕩が尋常でなくなり、度々暴力まで振るうようになった事から、西南戦争が希典(まれすけ)の精神に与えた傷がいかに深かったかが伺い知れる。

九年の陸軍生活に於いて順調に少将に昇任した希典(まれすけ)だったが、度を超した放蕩は九年後の千八百八十六年(明治十九年)十一月に川上操六少将らとともに渡ったドイツ留学まで続いた。

三十六歳に成っていた乃木希典(のぎまれすけ)少将に下った渡欧命令の目的は、明治三年の普仏戦争でフランスがドイツに負けた為、フランス式の軍隊制度を取り入れていた日本陸軍をドイツ式に変えようと言う意見が強まった結果、ドイツ陸軍の実情を研究視察してそれを日本陸軍に反映させようと言うものだった。

明治維新政府の人材育成熱は強く、国家の資金援助で軍幹部と官僚を欧米に官費留学させている。

この国家の資金援助で軍幹部と官僚を育てる俸給を得ながらの官費教育制度は、この藩の資金援助で俸給を得ながら藩士を育てる藩費教育制度に習い明治維新直後から始まっている。

そして実は、官僚の特権として多くの学習機会を与える官費教育制度は、形を変えて現代にまで続いている。

ドイツ帝国留学に於いて、希典(まれすけ)は質実剛健なプロイセン軍人に影響を受け、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになっていた。

千八百九十二年(明治二十五年)二月、歩兵第五旅団長を辞任して休職となるもこの年の末十二月に歩兵第一旅団長の就任為復職する。

日清戦争が始まり、日本陸海軍の快進撃が続く中、乃木少将の第一旅団にも当時東洋一といわれた「旅順口を占領せよ」と出撃命令が下る。

一万四千の清国兵が百余門の火砲を備えて守っていた旅順口に、希典(まれすけ)の第一旅団が向かって突撃を開始し、第一の堅牢である椅子山を正面攻撃、続いて松樹山、二龍山、鶏冠山を次々に攻め落とし、東洋一の要塞を僅か一日で陥落させた。

日清戦争は大勝利に終り、翌千八百九十五年(明治二十八年)四月の下関条約によって、遼東半島と台湾を譲り受けたが、三国干渉により遼東半島を清国に返環した。

歩兵第一旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征し旅順要塞を包囲して一日で陥落させた作戦に加わった乃木希典(のぎまれすけ)少将は少将から中将へと昇任した。

陸軍中将に昇格した希典(まれすけ)は、千八百九十五年(明治二十八年)第二師団長として台湾征討に参加している。

乃木希典(のぎまれすけ)その(三)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-10-07 13:24  

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