桂太郎(かつらたろう)・その(二)

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明治維新後、桂太郎(かつらたろう)は横浜語学学校で学び、千八百七十年(明治三年)年八月ドイツへ留学した。

但し太郎(たろう)のドイツへ留学は、賞典禄・二百五十石を元手にした私費留学であった事から現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団としてドイツへ来訪した木戸孝允(桂小五郎)を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。

木戸は、太郎(たろう)の叔父・中谷正亮とは親しくしていた為、中谷の甥である太郎(たろう)にも目をかけていて、帰国した千八百七十三年(明治六年)年七月、政争の合い間に太郎(たろう)の為に切り替え手続きを行ったものの、太郎(たろう)は十月半ばに留学を打ち切って帰国した。

木戸は陸軍卿の山縣有朋に依頼し、太郎(たろう)を陸軍に入れて大尉に任命した。

戊辰戦争の賞典禄二百五十石を受けた官軍の軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣が「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしない事になった。暫く辛抱してくれ」と慰める。

太郎(たろう)は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍の為には良かったと思います」と返答し、さらに陸軍の興隆策についての下問に対して「帰国して日が浅いので何とも言えませんが、徴兵制が実現した事は欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」と返答をした。

実は大村益次郎が発案した徴兵制度を押し進めていた山縣有朋は、士族出身者から白眼視されていた為、この太郎(たろう)の返答を聞いた山縣は大喜びだった。

太郎(たろう)は山縣の派閥に組み入れられたが、太郎(たろう)の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に一度は「木戸尊大人様閣下」とする宛名の手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。

この仰々しい敬称には返って木戸の方で驚いたに違いないが、太郎(たろう)にはそれを平然とやって退け、力有る者に取り入る図太さが在った。

以後は山縣の引き立てもあり、太郎(たろう)は順調に昇進を重ねた。

日清戦争には名古屋の第三師団長として出征し、その後第二代台湾総督を経て、第三次伊藤内閣で陸軍大臣になり、第一次大隈・第二次山県・第四次伊藤内閣の途中までその陸軍大臣の任を務め、義和団事件が一段落した千九百年(明治三十三年)十二月に児玉源太郎と交代した。

この年、千九百年(明治三十三年)九月、台湾総督の経歴を持つ桂太郎(かつらたろう)は拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。

勿論、この時期の最大の案件は「ロシアと戦う事になるのか否か、戦うとすれば誰に首相の大任を委ねるか」で、この陸軍大臣人事は全て山縣有朋の意向である。

大国ロシアとの対決の決断が迫る時、首相の大任を誰が負うのか駆け引きが続いていた。

伊藤博文は既に四回、山県有朋と松方正義は各二回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道井上馨の二人で、西郷従道は例によって兄・隆盛西南戦争責任を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣に取り掛かった。

戦時内閣を年頭にした井上馨は、財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか、優れた作戦家だが軍政には適していない児玉源太郎陸相を変えるかどうか閣僚の人選に悩み、井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂太郎(かつらたろう)の再任を求めたが両者に拒否されてあっさり組閣を断念する。

ここに到って元老会議は桂太郎(かつらたろう)を内閣首班に推し、明治天皇は太郎(たろう)に組閣を命じた。

千九百一年(明治三十四年)六月、山本権兵衛海軍大臣、児玉源太郎陸軍大臣の留任を除いて、小粒な第一次桂内閣が発足した。

蔵相兼外務大臣の曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になると言う官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった為、世人は「第二流内閣」と揶揄した。

太郎(たろう)は首相就任と同時に予備役陸軍大将となる筈であったが、天皇の意向により現役であり続け、九月に小村寿太郎を外相に起用した。

この外相起用は日英同盟締結を推進する為で、太郎(たろう)は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っているが、この自伝について山縣は本人に面と向かって「都合のいい作文みたいなものだ」と酷評している。

現実に小村寿太郎を使って為した日英同盟は、日露戦争に於いて日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の東郷平八郎、陸軍の乃木希典をアシストした児玉源太郎の働きで勝利した。

ポーツマスでのロシアとの和平交渉は陰でセオドア・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領を動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。

桂太郎(かつらたろう)は、参謀総長で在った山縣有朋の頭越しに明治天皇から戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めて行った。

以後、太郎(たろう)は「桂園時代」と呼ばれて西園寺公望(さいおんじきんもち)と交代で首相を務め、三度総理大臣を務めた合計首相在職日数二千八百八十六日は歴代一位である。

長期政権と言うと佐藤栄作が良く取り上げられるが、これは連続した在任期間二千七百九十八日で一位だからである。

太郎(たろう)は日露戦争時の総理大臣で、対露戦争を勝利に導いた「桂内閣」だったが、にも拘らず世間の評価は二流だった。

理由は、尊い犠牲を払ってロシアに戦勝したにも関わらず樺太の南半分を得ただけを不満として、戦後処理に於ける「桂内閣」の外交的失敗と国民が捉えていたからであるが、実は日本に戦争を継続する余力は既に無かったのだ。

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by mmcjiyodan | 2010-10-21 01:01 | Comments(0)  

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