秋山好古(あきやまよしふる)

日本陸軍の、特に騎兵隊の父と呼ばれた勲一等陸軍大将・秋山好古(あきやまよしふる)は、千八百五十九年(安政六年)に伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に於いて松山藩の下級武士・徒士目付筆頭・秋山久敬(あきやまひさたか)の三男として生まれた。

伊予松山・久松松平氏十五万石は、幕府親藩・御家門の大名で、好古(よしふる)の秋山氏は安土桃山期まで遡れば伊予の名流・河野氏に繋がるとされている。

実弟の一人に、海軍軍人として日清・日露の海戦に従軍し、日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した後、海軍中将に昇った九歳年下の久敬(ひさたか)五男・秋山真之(あきやまさねゆき)が居る。

千八百七十五年(明治八年)、好古(よしふる)は大阪師範学校受験し翌年には名古屋師範学校附属小学校に勤務するも僅か一年後(明治十年)には陸軍士官学校(旧制三期生)に入学し、軍人としての一歩を始めた。

二年後の千八百七十九年(明治十二年)、好古(よしふる)は陸軍士官学校卒業し、陸軍騎兵少尉に任用されて東京鎮台に配属される。

翌千八百八十年(明治十三年)、病に在った兄・則久の代替として好古(よしふる)が秋山家の家督相続する。

千八百八十三年(明治十六年)、好古(よしふる)は陸軍騎兵中尉に任じられて陸軍士官学校騎兵科教官に異動の後、翌月に陸軍大学校(第一期)入学する。

二年後の千八百八十五年(明治十八年)、好古(よしふる)は陸軍大学校卒業し参謀本部に勤務した後、翌明治十九年には東京鎮台参謀に異動となり陸軍騎兵大尉に任用される。

千八百八十七年(明治二十年)、好古(よしふる)は秋山家の旧主君家である旧伊予松山藩主・久松定謨(ひさまつさだこと)のサン・シール陸軍士官学校に留学に補導役として就き、フランスへ渡り騎兵戦術の習得に努める。

四年後の千八百九十一年(明治二十四年)、帰国した好古(よしふる)は騎兵の戦術専門家として騎兵第一大隊中隊長に異動、翌年には陸軍士官学校馬術教官に異動し陸軍騎兵少佐に任用される。

千八百九十三年(明治二十六年)、好古(よしふる)は騎兵第一大隊長に異動、翌年起こった日清戦争に従軍し、戦勝後の千八百九十五年(明治二十八年)には陸軍騎兵中佐に昇任した。

千八百九十七年(明治三十年)に陸軍騎兵大佐となり騎兵関係の軍教育畑を歴任した好古(よしふる)は、清国駐屯軍守備司令官などを経て千九百二年(明治三十五年)に陸軍少将に昇任する。

日露戦争の機運が高まる中、大陸に於ける作戦に好古(よしふる)の騎兵戦術は大いに期待され、千九百三年(明治三十六年)に騎兵第一旅団(習志野騎兵旅団)に異動する。

翌千九百四年(明治三十七年)の日露戦争の折には、秋山好古旅団長の指揮下で騎兵第一旅団は当時最強と言われたロシア帝国のコサック騎兵部隊を撃破するなど大いに活躍した。

九歳年下で学費を援助するなどして可愛がった弟の真之(さねゆき)には、千九百十八年(大正七年)に先立たれていた。

日露戦争後、好古(よしふる)は陸軍中将、近衛師団長、朝鮮駐剳軍司令官、陸軍大将、陸軍教育総監などを経て、晩年は本人の強い希望で故郷の北予中学校(現在の松山北高校)校長就任、千九百三十年(昭和五年)に亡くなる半年ほど前まで約七年教育現場で過ごしている。

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by mmcjiyodan | 2010-11-06 00:33 | Comments(0)  

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