日本武士の出現
実は決定的な必然として、支配体制を確立し掛かっていた渡来部族に対する原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスに対する対策として日本武士は出現した。
弥生期から平安期に到る日本列島黎明期の武力は、部族単位の自警団的要素が強いもので、必要に応じて召集される武力だった。
それが、原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスと言う必要な事態が常態化して専業の武門を組織する必要が生じた。
古代に於ける治安維持に関して、大和朝廷(ヤマト王権)初期の官憲としては犬飼部が挙げられ、その後は後胤貴族である平氏や源氏が大和朝廷(ヤマト王権)から地方派遣される形でその役割を担う経緯が存在した。
この頃に成り立ったのが実は全国に存在する初期鎮守神の出現で、鎮守府将軍に表される治安維持に関して、武力組織が地方に派遣され、陰陽修験道師(山伏)の活動も在り地方の平安を司どる呪詛的要素を習合して鎮守氏神(鎮守氏上)の信仰概念が成立した。
平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人貴族が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。
所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。
日本武士の出現が平安期とすると、それではそれ以前の武力は何だったのかと疑問をお持になるだろう。
それは当初の大和合国家の成り立ちからして、武力ではなく「神の威光で統治する」と言う呪詛的意味で統治する初期大和朝廷(ヤマト王権)の大王(おおきみ/天皇)に武力は相応(ふさわ)しくは無く、御所の守りは兵衛(ひようえ)と呼ばれる武官職の衛士で武士ではなかった。
地方に派遣するにしても、警察権的要素の犬飼氏を除くと米大陸に於ける移民が武力専任ではない立場で武器を携えていたのと同じレベルの位置付けになるのである。
つまり八百年も後の、米大陸の開拓移民に対する原住ネイティブアメリカン(インデアン)のレジスタンス抗争に騎兵隊が編成されたがごとくに良く似た経緯を辿って日本武士の出現を促した。
そしてそうした武力と言うものは、世界の常識のごとくご他聞に漏れず、やがて独自に動き始めて統制の利かない勢力に育ち、歴史の表舞台に昇る事になる。
詳しくは、小論【日本武士のルーツ】を参照。
関連小論
【国家の品格・武士道の国日本のまやかし】に飛ぶ。
【第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2010-11-26 15:40