崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)

平安末期の千百五十六年(保元元年)、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて争いが生じ、源義朝は崇徳上皇(すとくじょうこう)方に付いた父・為義、弟・頼賢や為朝らと袂を分かって後白河天皇方に付き、平清盛と共に戦って勝利を得る。

その戦いを、「保元の乱」と呼ぶのだが、この「保元の乱」の主役が悲劇の帝・崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)と権謀術策の帝・後白河天皇(ごしらかわてんのう/後に法皇)だった。

鳥羽天皇(とばてんのう/七十四代)と中宮・藤原璋子(ふじわらのしょうし/たまこ・待賢門院)の第一皇子として顕仁親王(あきひとしんのう・後の崇徳天皇/すとくてんのう)は生まれるが、顕仁(あきひと)は父帝・鳥羽には疎んぜられた。

疎んぜられた理由だが、これは「古事談」のみの記述であり真偽は不明ではあるが、崇徳天皇は白河法皇(七十二代)と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は顕仁(あきひと)を「叔父子と呼んで忌み嫌っていた」と言う逸話が記されている。

藤原璋子(ふじわらのしょうし)が十六歳で鳥羽天皇(七十四代)の下に入内(結婚)した時、二歳年下の鳥羽天皇はまだ十四歳、院政を敷いた白河法皇は当時六十四歳の最高権力者で、その可能性が無い訳ではない。

この白河法皇、中宮・賢子の死後は身分を問わず非常に多数の女性と関係を持つなど女性関係が乱れ、加えて関係を持った女性を次々と寵臣等に与えた事から、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤である」と言う噂が当時広く流布され信じられる原因ともなっている。

その疑惑の皇子・顕仁親王(あきひとしんのう)は千百十九年(元永二年)五月下旬に生まれ、翌六月中旬に親王宣下を受けるも波乱の人生が待っていた。

千百二十三年(保安四年)正月二十八日に白河法皇(七十二代)の推しも在って顕仁親王(あきひとしんのう)は五歳で皇太子となり、同日に鳥羽天皇(七十四代)の譲位により践祚(せんそ)、同年二月十九日に第七十五代・崇徳天皇(すとくてんのう)として即位した。

即位から六年後の千百二十九年(大治四年)、崇徳天皇(すとくてんのう)十一歳の時に関白・藤原忠通(ふじわらただみち)の長女である藤原聖子(ふじわらのきよこ/皇嘉門院)が七歳で入内(結婚)する。

藤原聖子(ふじわらのきよこ)入内の同年七月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)の擁護者・白河法皇が亡くなり、崇徳とは合わない鳥羽上皇が院政を開始、後ろ盾を持たぬ幼帝崇徳は孤立する。

院政開始後の鳥羽上皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛して得子所生の体仁親王(なりひとしんのう)の即位を目論み、千百四十一年(永治元年)十二月七日、崇徳天皇(すとくてんのう)に譲位を迫りこれを承知させると、体仁親王(なりひとしんのう)を近衛天皇(七十六代)として即位させる。

体仁親王(なりひとしんのう)は崇徳天皇(すとくてんのう)の中宮・藤原聖子(ふじわらのきよこ)の養子であり「皇太子」の筈だったが、鳥羽上皇の画策で譲位の宣命(みことのり)には「皇太弟」と記されていて、天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

崇徳天皇(すとくてんのう)は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになる。

新院・崇徳は在位中から頻繁に歌会を催していたが、上皇になってからは和歌の世界に没頭し、「久安百首」をまとめ「詞花和歌集」を撰集し、鳥羽法皇が和歌に熱心でなかった事から、当時の歌壇は崇徳を中心に展開している。

鳥羽法皇も表向きは崇徳に対して鷹揚な態度で接し、病弱な近衛天皇(このえてんのう)が継嗣のないまま崩御した場合に備え、崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう/母は兵衛佐局)を美福門院の養子に迎えた。

千百五十五年(久寿二年)七月二十四日、予てより病弱だった近衛天皇が十七歳で崩御し、改めて後継天皇を決める王者議定が開かれる。

順当なら美福門院の養子に治まった崇徳(すとく)の第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)が候補として最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(まさひとしんのう)が立太子しないまま二十九歳で、後白河天皇(七十七代)として即位する事になった。

背景には崇徳(すとく)の院政によって自身が掣肘される事を危惧する美福門院、忠実・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳(すとく)の寵愛が聖子から兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)に移った事を恨む忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀が推測される。

この後白河天皇(七十七代)の即位により崇徳(すとく)の院政の望みは粉々に打ち砕かれる。

後白河天皇即位の翌千百五十六年(保元元年)五月、鳥羽法皇が病に倒れ、崇徳(すとく)は臨終の直前に見舞いに訪れたが対面は適わず七月二日申の刻(午後四時頃)に崩御した。

鳥羽法皇は臨終の床で崇徳(すとく)との対面を拒否、側近の藤原惟方に自身の遺体を「崇徳に見せないように」と言い残した為、崇徳(すとく)は憤慨して鳥羽田中殿に引き返すも、後白河天皇と崇徳上皇(すとくじょうこう)の間は誰が見ても険悪な状態に成っていた。

鳥羽法皇が崩御して程なく、二月後に事態は急変する。

千百五十六年(保元元年)七月五日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の七月八日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集める事を停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。

これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる「崇徳上皇(すとくじょうこう)方への先制攻撃」と考えられる。

千百五十六年(保元元年)七月九日の夜中、崇徳上皇(すとくじょうこう)は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある鳥羽天皇・第二皇女、統子内親王(むねこないしんのう/母は中宮藤原璋子)の御所に押し入る。

「兵範記」の同日の条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、自らの第一皇子・重仁親王(しげひとしんのう)も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。

崇徳(すとく)に対する直接的な攻撃は未だ無かったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まって居れば拘束される危険もあった為に脱出を決行したと思われる。

翌十日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳(すとく)の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。

崇徳上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳(すとく)は今は亡き平忠盛が重仁親王(しげひとしんのう)の後見だった事から、忠盛の子・清盛が味方になる事に一縷の望みを賭けていた。

所が、「愚管抄」に拠ると重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力する事を命じた。

天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり(「兵範記」の七月十日の条)」として武士を動員し、十一日未明、白河北殿へ夜襲を掛けた為に白河北殿は炎上し、崇徳(すとく)は御所を脱出して行方をくらます。

十三日になって、逃亡していた崇徳(すとく)は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するも、しかし覚性が申し出を断った為、崇徳(すとく)は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。

十日ほどして讃岐配流処置が決まり、二十三日に成って崇徳(すとく)は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。

天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来に成る凡そ四百年ぶりの出来事で、崇徳上皇(すとくじょうこう)に同行したのは寵妃の兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)と僅かな女房だけだった。

その後崇徳上皇(すとくじょうこう)は、配流先の讃岐での軟禁生活の八年後、四十六歳で二度と京の地を踏む事はなく、千百六十四年(長寛二年)八月下旬に崩御した。

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by mmcjiyodan | 2010-12-23 19:36 | Comments(0)  

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