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吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)

吉良家は名門清和源氏足利氏の末裔である。

鎌倉幕府有力御家人から南北朝並立時代は北朝・足利方に在って室町期は小領主ながら室町幕府・足利将軍家の近臣として仕えて生き延びる。

戦国期は同門でもある今川氏や同じ三河の松平氏に翻弄され盛衰を繰り返しながら江戸幕府・江戸期を迎える。

千五百九十二年(天正二十年)、格式高きを持って徳川家康に取り立てられ徳川家旗本に列した吉良氏は、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として高家肝煎(こうけきもいり)の家格を与えられ、赤穂義士の討ち入り時の当主・上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)は、三河国吉良庄内三千石の領主だった。

ただし吉良家には上州白石にも千二百石知行地があり、陣屋を構えていた所から上野介(こうずけのすけ)を賜った。

吉良家は、出自を本姓は源氏(清和源氏)の足利氏に遡る名門で、本拠地の三州は駿河の戦国大名・今川氏の発祥の地であり、今川氏と吉良氏は同族である。

元禄赤穂事件の一方の当事者・吉良義央(きらよしひさ)は、江戸時代前期の高家肝煎(こうけきもいり)格の旗本だった。

従四位上左近衛権少将の官位、上野介(こうずけのすけ)の官職(官途名)などを賜っていた為、吉良上野介(きらこうずけのすけ)と呼ばれる事が多い。

千六百四十一年(寛永十八年)九月、高家旗本四千二百石・吉良義冬(きらよしふゆ)と幕府大老・若狭国小浜藩主・酒井忠勝の姪(旗本寄合・酒井忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれるが、生地については陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれとされる説もある。

また、父・義冬(よしふゆ)の母が高家・今川家出身である為、義央(よしひさ)は今川氏真(いまがわうじざね)の玄孫にあたる。

弟に旗本五百石・東条義叔、旗本切米三百俵・東条義孝・東条冬貞(義叔養子)・東条冬重(義孝養子)・孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の五人がいる。

千六百五十三年(承応二年)、吉良義央(きらよしひさ)は将軍・徳川家綱に拝謁を許され、四年後の千六百五十七年(明暦三年)の暮れには従四位下侍従兼上野介に叙任される。

翌千六百五十八年(万治元年)春、義央(よしひさ)は出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚する。

吉良氏が古くからの婚姻関係によって扇谷上杉氏の血を引いており、義央(よしひさ)は上杉富子との間に二男四女(長男吉良三之助、次男吉良三郎、長女鶴姫、次女振姫、三女阿久利姫、四女菊姫)に恵まれる。

高家としての吉良氏に生まれた吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、千六百五十八年(万治二年)の十七歳から父・義冬(よしふゆ)に伴われて出仕を開始する。

二十一歳で初めて幕府のお役目を拝命、千六百六十二年(寛文二年)八月に大内仙洞御所造営の御存問の使として京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜り、以降、生涯を通じて年賀使十五回、幕府の使九回の計二十四回上洛した。

千六百六十三年(寛文三年)正月、義央(よしひさ)は後西上皇の院政の開始に対する賀使としての二度目の上洛に際して従四位上に昇進、若干二十二歳だった。

義央(よしひさ)の高家としての技倆が卓越して、それを認めた将軍・綱吉が寵愛した為か部屋住みの身でありながら使者職を行い、二十四回もの上洛は高家の中でも群を抜いていた。

そうした中、千六百六十四年(寛文四年)の初夏、妻・上杉富子の実家・米沢藩上杉家が存亡の危機を迎える。

米沢藩主・上杉綱勝が嗣子無きまま急死した為に改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、義央(よしひさ)長男・三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、三十万石から半減の十五万石への減知で危機を収束させた。

以後、義央(よしひさ)は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、度々財政支援をさせた他、三人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとする。

長女鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室、三女阿久利姫は交代寄合旗本・津軽政QU(つがるまさたけ)の室、四女菊姫も旗本・酒井忠平の室となっている。

但し薩摩島津家に嫁した鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も夫・忠平と死別するが、後に公家・大炊御門経音の室となって一男一女をもうけている。

父・義冬が健在だった為に、初出仕の十七歳から十一年間部屋住みだった義央(よしひさ)は、千六百六十八年五月、義冬の死去により二十八歳で漸く高家・吉良氏の家督を相続する。

千六百八十年(延宝八年)、義央(よしひさ)は四十歳で高家の極官(上限)である左近衛権少将に任官し、その三年後の千六百八十三年(天和三年)には大沢基恒、畠山義里とともに新設の格式・高家肝煎(こうけきもいり)に就任している。

さて、高家肝煎(こうけきもいり)・吉良義央(きらよしひさ/上野介)は、江戸城内大廊下(松の廊下)で起こったとんでもない事件の当事者に成る。

その事件は、千七百一年(元禄十四年)二月四日、播州播磨赤穂藩主・浅野長矩(あさのながのり)と伊予吉田藩主・伊達村豊の両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春・霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの饗応役を命じられた事に始まった。

実はその際、義央(よしひさ)は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、帰途に体調を崩して二月二十九日まで江戸に戻らなかった。

この間、浅野長矩(あさのながのり)は二度目の饗応役であった為に過去の経験をもとに饗応準備をしていたが、過ってとは変更になっている事もあって手違いを生じていた。

この吉良義央(きらよしひさ/上野介)不在中の準備に於いて擦れ違いが生じた事が事件の遠因と見る向きもあり、更に三州吉良、播州赤穂ともに塩田経営が盛んで、言わば両者は「製塩産業のライバルだった」とも指摘されている。

また大名・播州赤穂浅野家の五万三千石と比べれば、高家旗本・三州吉良家は四千二百石で知行は約十三倍、格式は高いが実入りが少ない高家としては儀典の指南料は暗黙の常識ながら、「長矩(ながのり)がこれを拒んだ」と言う説もある。

いずれにしても、浅野長矩(あさのながのり)の刃傷の原因は諸説あり、いずれも決定打には至らない。

元禄・赤穂事件(俗称・忠臣蔵)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-12-26 15:28 | Comments(0)  

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