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佐野氏(さのうじ)と下野国(しもつけのくに)

姓人口全国百一位・約十八万五千人前後の佐野氏(さのうじ)は、足利氏・足利有綱(俊綱の弟)の子で下野国安蘇郡の佐野庄(現:栃木県佐野市若松町)に土着した佐野基綱より始まる藤原北家秀郷流足利氏の庶流として平安時代末期から江戸時代初期にかけて下野国を中心に栄えた一族である。

治承(じしょう)のクーデターでは、本宗である藤姓足利氏当主・足利忠綱が志田義広と手を組んだのに対し、佐野基綱は早くから源頼朝に味方した為、頼朝に拠って藤姓足利氏の嫡流が滅亡した後も、鎌倉幕府御家人として勢力を維持した。

千二百二十二年(承久三年)に発生した承久の乱での戦功で、佐野氏は一時淡路国に所領を得るが、千二百四十七年(宝治元年)の宝治合戦では三浦氏に与した為、下野国佐野の本領以外は没収され一時没落した。

鎌倉幕府の滅亡後、佐野氏(さのうじ)は足利氏に属し、室町時代を通して鎌倉公方や古河公方に官司として仕え、主として関東の治世に活躍した。

戦国時代になると、古河公方の足利義氏が後北条氏に軟禁されるなど衰退した為、佐野氏も後北条氏の影響下に置かれるようになり、その為、後北条氏と敵対する関東管領・上杉謙信の侵略に度々晒されるようになった。

それでも佐野豊綱・佐野宗綱の代には一定の独立した勢力を保っていたが、宗綱の戦死後、後北条氏から養子(北条氏忠)を迎えその傘下となる。

その為に豊臣秀吉小田原平定(小田原の役)に於いて滅亡の危機を迎えたが、佐野房綱(了伯)が秀吉方に味方し活躍した為に存続を許された。

しかし江戸時代初期の佐野家(所領三万九千石)当主・佐野信吉に不行跡が在った為、江戸幕府を開いた徳川氏により改易処分となり、大名としての佐野氏は終焉を向かえたが子孫は旗本として存続した。

千七百八十四年(天保四年)に江戸城中で時の老中・田沼意次の子息で若年寄・田沼意知に斬りつけて殺害し、反田沼派が台頭するきっかけを作った旗本・佐野政言(さのまさこと)も子孫の一人である。

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by mmcjiyodan | 2011-01-23 00:08 | Comments(0)  

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