香川氏(かがわうじ)と讃岐国(さぬきのくに/香川県)

豊臣秀吉に拠る四国平定戦当時、讃岐国(香川県)の戦国大名・香川氏(かがわうじ)は四国に覇を唱えた長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)に制圧され臣従していた。

為に讃岐国・香川氏(かがわうじ)は秀吉の四国平定戦に長宗我部方として奮戦している。

律令制に於ける讃岐国は、七世紀に現在の香川県の四国本土部分とおそらく塩飽(しわく)諸島を範囲として成立し、江戸時代に小豆島と直島諸島が備前国から譲られた。

平安時代初期には真言密教を興す事になる弘法大師(空海・佐伯真魚/さえきのまお)が讃岐国那珂郡に生まれるなど畿外の地である割に讃岐国は文化が高く、平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、源義経の奇襲に敗れて滅び、平家滅亡の道を歩む事になる。

この讃岐国は、讃岐国造(くにのみやっこ)となった佐伯部民(さえきべみん)の佐伯氏・佐伯直姓一族が支配していたが、平安後期になると治承のクーデター・寿永の乱(俗に言う源平合戦)が起こって鎌倉幕府が成立し、守護地頭制の支配体制の依り讃岐国守護として細川氏が入国する。

鎌倉期には、藤原系秀郷流・後藤基清、藤原系秀郷流・近藤国平などの藤姓武家の他、桓武平氏流・三浦義村の四男・三浦光村ら鎌倉御家人、或いは北条執権の異母弟・北条有時などが収めていた。

室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、讃岐阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。

千三百六十年代、讃岐国守護・細川氏に従って相模国より讃岐に入部した香川景則が讃岐国西方半分の守護代に任ぜられ天霧山に天霧城(あまぎりじょう)築城する。

つまり讃岐国善通寺の近くには天霧城(あまぎりじょう)が在り、その城は讃岐国・香川氏累代の詰城だった。

香川県の由来となった香川氏の出自は桓武平氏良文流のひとつで相模国を本貫地とする坂東八平氏(ばんどうはちへいし)流・鎌倉氏の一族・鎌倉権五郎景政を祖とする武家・鎌倉氏である。

一族の鎌倉経高(かまくらつねたか)が相模国・香川(現在の神奈川県茅ヶ崎市周辺)の地を支配して以降、香川氏を称したのに始まる武家である。

以後、香川氏は細川京兆家の内衆として細川氏に従い畿内で活躍しつつ西讃岐を知行地として支配し、つまり天霧城(あまぎりじょう)は都に赴任中の香川氏の留守宅だった。

香川氏は、代々讃岐守護・細川家の守護代を勤め、応仁の乱で活躍して細川四天王の一に数えられるようになり、その後、讃岐国内で勢力を広げ戦国時代には讃岐国の西部の大半を支配するほどで在った。

戦国期の香川氏は、毛利元就織田信長、長宗我部元親と周囲の有力勢力に次々と接近して所領の確保に努めたが、豊臣秀吉が行った四国平定の際に改易となった。

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by mmcjiyodan | 2011-01-25 00:04 | Comments(0)  

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