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古代豪族・滋野氏(しげのうじ)と四之宮権現の謎

滋野氏(しげのうじ)とは、清和天皇(第五十六代)の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう、陽成天皇の同腹の弟)がその家祖とされるが、「尊卑分脈」には記載されておらず、その真偽は「多分に怪しい」との指摘もある。

清和天皇の第二皇子・貞固親王(さだかたしんのう)や貞秀親王を祖とする説や滋野東人・楢原氏(ならばらうじ/紀氏)系滋野氏説、大伴氏末流説など在り滋野氏(しげのうじ)の出自は定かではない。

古代豪族・紀(き)氏系流・深井氏に、清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が入る形で滋野(しげの)氏は成立している。

滋野氏と婚姻関係を結んだのは貞元親王(さだもとしんのう)ではなく弟の第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)であると言う説もあり、「続群書類従」では貞元親王(さだもとしんのう)ではなく貞保親王(さだやすしんのう)としている。

しかし、当の白鳥神社で祀られているのは何故か貞元親王(さだもとしんのう)である。

この点、醍醐天皇(第六十代)から滋野姓を賜った善淵王(よしぶちおう)が禰津西宮(ねずさいぐう)に四之宮権現として祖父を祀っている事からすると、第三皇子の貞元親王(さだもとしんのう)ではなく第四皇子の貞保親王(さだやすしんのう)と言うのが正しいと想われる。

つまり清和天皇の第四皇子に貞保親王(さだやすしんのう)と言う人物がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれていた。

その貞保親王(さだやすしんのう)は琵琶の名手とされていて、宮中で琵琶を弾いていた時にその音の美しさに聞きほれて燕が迷い入り糞をし、その糞が皇子の眼に入って、眼病になった。

為に加沢の温泉に眼病治療に来ていて、深井某の娘を側女として生まれたのが海野氏と伝えられて居る。

この清和天皇の第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)と第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が信州上田の地で錯綜した伝説として定着している。

つまり信州上田地方・東部町禰津(ねず)の地、貞元親王(さだもとしんのう)の陵に把つた神社が山陵宮獄神社と言い、貞元親王(さだもとしんのう)が第三皇子にも拘らず四ノ宮権現とも言っている。

東部東深井深井正、深井信司氏の系図に拠ると、四ノ宮と言うのは貞元親王(さだもとしんのう)が清和天皇の「第四の二皇子と言う意味」としているが、別の「続群書類従」では貞保親王(さだやすしんのう)とあり、それならば四ノ宮権現の意味が判る。

上田市・田町に配当屋と言う物が在ったが、ここは、江戸時代まで琵琶法師その他芸能をもって生活をする人達の管理をする所であり、ここの管理は「深井氏が永くしていた」と言う。

第三皇子・貞元親王(さだもとしんのう)或いは第四皇子・貞保親王(さだやすしんのう)が琵琶演奏の名手であり、禰津(ねず)の四ノ宮権現の前には巫女が沢山いた事、下之条の両羽神社にも巫女がいた事などから察するに、貞元親王の末と称する滋野氏なるものは芸能を伝える仕事をもって広域に広まって行った者達かも知れない。

この神域の巫女については、官人接待を目的とした「初期の娼妓」と言う平安期の歴史も存在し、この神域の巫女については、官人接待を目的とした「初期の娼妓」と言う平安期の歴史も存在し、神社=神楽=巫女舞い=芸能=神前娼婦(巫女)の図式が成立していた。

滋野氏流海野氏からは、望月氏・禰津(ねず)氏・ 真田氏らが分かれ、さらに会沢・塔原・田沢・矢野・岩下などの諸氏が分出した。

滋野姓禰津氏族・浦野氏については禰津氏の後裔説、海野氏の後裔説、清和源氏満政流・浦野氏説など諸説がある。

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by mmcjiyodan | 2011-05-27 02:32  

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