徳川家宣(とくがわいえのぶ)

六代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)は甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相/徳川家光の三男)の長男である。

伯父である四代将軍・徳川家綱(第三代征夷大将軍・徳川家光の長男)の偏諱を受けて「綱豊(つなとよ)」と名乗るが、父・綱重の死去を受け十七歳で甲府藩主の家督を継承していた。

四代将軍・徳川家綱に子供が無かった事から、家綱重体の折に五代将軍継承の有力候補になるも三代・家光に血が近い上野館林藩主・綱吉(三代将軍・家光の四男)が五代将軍に推される。

所が、五代将軍になった綱吉にも世嗣恵まれず、挙句に地震や噴火と天変地異に脅かされ寺社に傾倒して「生類哀れみの令」など悪政に到るも信心の効無く、綱吉娘婿・徳川綱教を後継候補にしていた。

その娘婿・徳川綱教が死去した為、綱豊(つなとよ)が四十三歳の時に将軍世嗣として「家宣(いえのぶ)」と改名し、江戸城西の丸に入った。

徳川綱豊(家宣/いえのぶ)の江戸城西の丸城入に伴ない甲府藩は解体、甲府徳川家の家臣団は幕臣に編入される。

その幕臣に編入された家臣団の中に、後に将軍・家宣の側衆から上野国高崎藩主に出世する間部詮房(まなべあきふさ)「正徳の治」を断行した儒学者・新井白石の名も見える。

少し前の時代に遡るが、この五代将軍・徳川綱吉の治世に徳川幕府としては最大の好景気時代・元禄を迎えている。

しかし未曾有の好景気は、後の時代の浪費や不正を育てる温床でもある。

その浪費や不正は、綱吉以後の幕府財政悪化に成って現れ、六代将軍・家宣(いえのぶ)、七代将軍・家継の二代に渡る新井白石の「正徳の治」の失敗を招いている。

何故なら、「朱子学(儒教)」は己を律する抑制的な教えであるが、言わば建前で、本音を別に持った人間は利害を突き詰めると「本音で行動するから」である。

絶大な権力を握っていた間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石だったが、六代・家宣(いえのぶ)亡き後七代を継いだ徳川家継が幼少のまま病没し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が八代将軍に就任すると、吉宗側近のチーム吉宗に取って代わられ両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚する。

間部詮房(まなべあきふさ)は、失脚後も大名としての地位を剥奪される事はなく、領地を高崎から遠方の村上藩(新潟県村上市)に左遷され、新井白石は江戸城中の御用控の部屋と神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、後にに幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。

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by mmcjiyodan | 2011-06-01 19:23 | Comments(0)  

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