島津義久(しまずよしひさ)〔三〕

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千五百九十四年(文禄三年)、義久の弟・島津義弘石田三成に検地実施を要請する。

検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われる事となった。

これは秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったとされ、領地安堵の朱印状も義弘宛に出されている。

当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた為、これを「両殿体制」と言う。

豊臣秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、泗川の戦い等の軍功を評価され、島津家は五万石の加増を受けた。

しかし家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。

義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、「事前に義久の了解を得ていた」と言う説もあり、事件後には家臣達から「忠棟の子・伊集院忠真と連絡をとらない」と言う起請文をとっている。

千六百年(慶長五年)石田三成と徳川家康が戦った関ヶ原の戦いに於いては、京都に居た島津義弘は西軍に加担する事になる。
この間、再三義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。

戦後、西軍への荷担は義弘が行ったもので、義久はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。

家康に謝罪する為に忠恒が上洛しようとするが、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対している。

忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛した。

義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できない為、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。

結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。

徳川家康による領土安堵後の千六百二年(慶長七年)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。

この頃の体制を指して「三殿体制」と呼ぶ。

島津義久は、千六百四年(慶長九年)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築いて移り住んだ。

しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから忠恒との関係は次第に悪化したと言われる。

忠恒・亀寿夫妻の間には一人も子が無かった事から、義弘は外孫の島津久信を忠恒の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。

また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵にも反対していたとされる。

義久は優秀な三人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。

しかし、織田信長の後を継いで中央を制した豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅二ヵ国と日向・諸県郡(もろかたぐん)を安堵される。

豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。

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by mmcjiyodan | 2011-07-07 17:27 | Comments(0)  

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