皇女和宮と公武合体

江戸・徳川幕府は尊王攘夷運動の沈静化と朝幕関係を修復を図って十四代将軍・家茂孝明天皇の兄妹の宮を迎えて公武合体(公家と武士の協調体制)を進めようと画策する。

朝廷側も、孝明天皇の攘夷論を幕府と一体化する思惑も在り、大老・井伊直弼桜田門外で暗殺されたのを期に公武合体に応じる姿勢を見せる。

花嫁候補には孝明天皇の娘・富貴宮が検討されたが、その時点で将軍・家茂は十三歳、富貴宮は僅か生後六ヶ月と現実的では無かった。

そこで僅か半月(二週間)ほど姉さん女房になる孝明天皇の異母妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう/仁孝天皇の第八皇女)が適当とされ、降嫁の話が進んでいる。

ただしこの和宮内親王(かずのみやないしんのう)、既に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約をしていた。

しかし候補の一人富貴宮は薨去してしまい、幕府は他に候補が居ないまま益々和宮内親王(かずのみやないしんのう)の降嫁を奏請する。

思案に窮した孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求め、岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ、幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し、納得させた上で降嫁を勅許するべき」と回答する。

孝明天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める旨」の勅書を出し、幕府が「十ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答した事で天皇は和宮の降嫁を決断した。

和宮はこれを拒むが、孝明天皇の説得を受けて明春の下向を承諾している。

皇女・和宮降嫁以後、守旧派のトップは北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍・家茂(いえもち)で、二人の思想は、「公武合体、鎖国攘夷」である。

二人は和宮(孝明天皇の妹、家茂の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。

その二人が、相次いで亡くなった。
その死が不自然で、今日でも根強く「暗殺説」が囁かれている。

江戸城大奥で和宮を待っていたのは、武家のしきたりと前将軍・家定(十三代)の正室・天璋院篤姫だった。

薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らす事を選んだ。

皇女・和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いも在ってか当初不仲だったが、後には和解したと言われ、十五代将軍・慶喜(よしのぶ)の大奥改革に対しては、家茂の死後落飾して「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗っていた和宮は篤姫と共に徹底的に反対している。

和宮降嫁に関しては「和宮替え玉説」があり、永年患っている足の関節炎に関しては増上寺の発掘調査で「両膝は健全」と合致せず、逆に茶の湯・お琴をたしなむ和宮の手は両手有る筈で、発掘した和宮に「左手首が無い」などの整合性に欠ける事実が浮上して小説に取り上げられる素材となった。

もし、皇女・和宮降嫁に岩倉卿が絡んでいた事で和宮が替え玉であれば、後の明治帝入れ替わり説の朝廷側首謀者の一人と目される岩倉卿が、「どうせ帝も替え玉になる」と腹を括(くく)って送り出したのかも知れない。

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詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-07-10 00:58 | Comments(0)  

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