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岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔二〕

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その後の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)であるが、四年後の千八百七十三年(明治六年)、廃藩置県後に後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船二隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、この三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。

この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った事はつとに有名で、三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した。

結果的に坂本龍馬(さかもとりょうま)の「世界との交易」の夢はこの岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に引き継がれ、その交易力の国家的必要性から、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)がかなり強引な政治力を行使した。

最初に弥太郎(やたろう)が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時の事である。

新政府が通貨統一の為、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げる事を事前にキャッチした弥太郎は十万両の資金を都合してその藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎(ごとうしょうじろう)であり、この行為は今で言うインサイダー取引であり、弥太郎は最初から政商として暗躍した。

弥太郎(やたろう)の三菱商会は、千八百七十四年(明治七年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得、千八百七十七年(明治十年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。

政府の仕事を受注する事で大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」と言う表現を良く使ったが、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。

農商務卿・西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎(やたろう)は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払っても良いが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

千八百七十八年(明治十一年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、千八百八十一年(明治十四年)には政変で大隈重信が失脚し、弥太郎(やたろう)が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。

千八百八十二年(明治十五年)には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。

三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは二年間も続き、運賃が競争開始以前の「十分の一にまで引き下げられる」と言う凄まじさだった。

また、パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(三菱銀行に発展した事業)を考案し弥太郎(やたろう)は勝利した。

千八百八十五年(明治十八年)、こうしたライバルとの競争の最中、弥太郎(やたろう)は五十一歳で病死した。

弥太郎(やたろう)の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、この経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

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by mmcjiyodan | 2011-07-11 17:05  

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