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岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔一〕

三菱財閥の創業者で初代総帥の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、土佐屋善兵衛とも称する明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。

その岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎(やじろう)と美和の長男として生まれた。

地下浪人とは郷士の株を売ってしまって浪人をしている者の事で、ちょうど坂本龍馬(さかもとりょうま)の実家・「才谷屋」が土佐の豪商に繁栄して郷士の株を買って下士に名を連ねたのとは反対に没落した訳で、下士の身分にも成らない中途半端な立場である。

岩崎家は、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門の代に「郷士の株を売った」と言われている。

弥太郎(やたろう)は幼い頃から文才を発揮し、十四歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められたと伝えられている。

弥太郎(やたろう)二十一歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、千八百五十五年(安政二年)、父親が酒席での喧嘩により獄に繋がれた事を知り、急遽土佐に帰国する。

父の冤罪を訴えた事により弥太郎(やたろう)も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだ事が、後に商業に手を染める機縁とされる。

出獄後、弥太郎(やたろう)は村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋(よしだとうよう)が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの知遇を得る。

その後、運良く師である吉田東洋が参政となって土佐藩山内家の政治を指揮するようになると、弥太郎(やたろう)はこれに仕える。

この頃、弥太郎(やたろう)は二十七歳で長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女・喜勢を娶(めと)って居る。

土佐藩参政・吉田東洋(よしだとうよう)に仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎(やたろう)は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。

しかし、必要な届出に不備があった事を咎められ「弥太郎(やたろう)は帰国した」とされるが、一説には尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから「任務を放棄し、無断帰国した」とも言われて居る。

この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎(やたろう)は九死に一生を得ている。

弥太郎(やたろう)は藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩した事から半年後に帰国させられ、帰国後長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。

千八百六十七年(慶応三年)、吉田東洋・少林塾で同門だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に、弥太郎(やたろう)は藩の商務組織(藩営)・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され藩の貿易に従事する。

同年、坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。

記録上確認出来る弥太郎(やたろう)と龍馬の最初の接点はこの時で、弥太郎(やたろう)と龍馬は不仲で在ったとも伝えられるが、弥太郎(やたろう)は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。

翌千八百六十八年(明治元年)に長崎の土佐商会(藩営)が閉鎖されると、弥太郎(やたろう)は開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。

千八百六十九年(明治二年)、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎(やたろう)は海運業に従事し、この頃に土佐屋善兵衛を称している。

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔二〕へ続く

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by mmcjiyodan | 2011-07-11 17:06 | Comments(0)  

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