三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家

徳川幕府の家臣の内、原則では所領が一万石を越える領地を持つ者を大名と呼び、一万石に満たない小領主を旗本と呼ぶ。

大名の語源であるが、平安時代に起こった名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)にある。

守護大名(しゅごだいみょう)戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来は「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、たまに見かける「大いに名が轟くから大名と言う説」は怪しい解説である。


一般に三百諸侯と言うが、徳川幕府二百六十年余りを延べで数えると五百数十家存在し、江戸期を通じて概ね二百七十家くらいが平均で在った。

その間、江戸時代を通じて処罰された大名の総数は二百四十八家で、取り潰された大名の親藩・譜代と外様の割合はほぼ半々だった。

大名家には、規模や格式に拠り国主、城主、無城(陣屋)の別が在り、親藩、譜代、外様の区別がある。

この幕藩体制に於ける領地及び行政機構に於いて徳川将軍宗家自身は大名・藩とは考えられていない。

それに「藩」ついて注釈を入れると、実は「藩」と言う呼称も幕末に一般化したもので、それまでは余り「藩」は文書や会話でも日常的に使われて居らず「何々様御家中、何々様御領分」と言った様な概念だった。

徳川幕府に於ける親藩は、二十二家を数える。

親藩の内訳は、尾張紀伊水戸御三家を筆頭に、御三家の親戚連枝大名が七藩、二代将軍・秀忠の兄・結城秀康に始まる越前松平系の八藩、それに三代将軍・家光の弟・会津松平家、越智松平家、久松松平家の内二家である。

ただし、八代将軍・吉宗が創出した御三卿、一橋、田安、清水家は十万石となっているが、領地は天領の中から散在して与えられ封地が定まっている訳では無い。

更にこの御三卿は、家臣も「幕臣の出向」のみで固有の譜代家臣が存在せず、御三卿は条件不十分で大名家とは言い難い。

譜代とは関ヶ原以前から徳川家の家臣だった大名で、逆の見方をすると豊臣政権時に、豊臣家から見て「徳川家の陪臣だった者」と言う事もできる。

従って豊臣家の直大名だった者が原則徳川幕府に於いて外様となるが、外様で在った者が譜代格を得る場合もあった。

大名家の扱いについて例外はいくつかあり、蝦夷松前(えぞまつまえ/北海道)の松前家は石高は無高だが一万石格で大名家扱い、下野国・喜連川の喜連川家(足利尊氏の次男・足利基氏の後裔)は五千石だが万石扱いで同じく大名家として扱った。

また、大々名の家臣(陪臣)には、当然石高一万石を超える者も居るが、陪臣は原則として大名ではない。

ただし、御三家の付け家老五家・尾張家の成瀬家(犬山三万五千石)・竹腰家(今尾三万石)、紀州家の安藤家(田辺三万八千石)・水野家(新宮三万五千石)、水戸家の中山家(松岡二万五千石)については、直参(譜代大名)と扱われて居り参勤交代もしていた。尚、この御三家の付け家老五家に関しては、維新時に新政府によって独立の藩とされたので、史学上では大名家としてカウントする場合もある。

その他、周防岩国の吉川家歴史的経緯が在り徳川家から認可されている事、参勤交代を行っている事など、実質的には大名家である。

しかし毛利宗家が、そのを吉川家を大名と認めず毛利家の家臣=陪臣として居り、複雑な地位だった。

また、一万石に満たない小領主を旗本と呼ぶが、その中でも「高家旗本(こうけはたもと)」や「交代寄合格(大名待遇格)」などがあり、その格式を持たない者が「寄合格旗本」だった。

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by mmcjiyodan | 2011-11-21 14:09 | Comments(0)  

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