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舎人親王(とねりしんのう)

日本書紀」の編纂を総裁した事で知られる舎人親王(とねりしんのう)は、舎人皇子(とねりのみこ)とも記される天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の皇子で、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族である。

舎人親王(とねりしんのう)は、淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)の父でもあり、諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)を号す。

舎人親王(とねりしんのう)は長寿で、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。

舎人親王(とねりしんのう)・子孫の清原氏は、高市皇子系列の高階氏(たかしなうじ)と共に天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。

七百十八年(養老二年)、舎人親王(とねりしんのう)四十二歳の時、一品に昇叙され、翌年には元正天皇より異母弟・新田部親王と共に皇太子・首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)の補佐を命じられた。

七百二十年(養老四年)、舎人親王(とねりしんのう)四十四歳の時には舎人親王(とねりしんのう)自らが編集を総裁した「日本書紀」を奏上している。

この年(七百二十年)舎人親王(とねりしんのう)に転機が訪れる。

当時の朝廷の実力者であった右大臣・藤原不比等の薨去に伴い知太政官事に就任し、右大臣(のち左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する。

七百二十四年(神亀元年)の聖武天皇即位に際し、舎人親王(とねりしんのう)は封五百戸を加えられている。

この頃から舎人親王(とねりしんのう)は、次第に藤原氏寄りに傾斜し、七百二十九年(天平元年)に起こった長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害せしめている。

さらに同年、舎人親王(とねりしんのう)は藤原不比等の娘・光明子の立后を宣言するなど、藤原四兄弟政権の成立に協力した。

舎人親王(とねりしんのう)は、天然痘が蔓延する七百三十五年(天平七年)平城京で六十年の生涯を閉じる。

没後二十四年の七百五十九年(天平宝字三年)、息子の大炊王(おおいのおおきみ/淳仁天皇)が即位するに及び、舎人親王(とねりしんのう)は天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号された。

詳しくは、小論【聖徳太子は実在したか?その疑惑を追う】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-12-28 15:16 | Comments(0)  

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