後藤新平(ごとうしんぺい)

関東大震災(かんとうだいしんさい))から首都東京を復興させた功績者が「後藤新平(ごとうしんぺい)だ」と言われている。

新平(しんぺい)の生家である後藤家は、陸奥仙台藩(水沢藩)・留守氏(るすうじ)の家臣である。

陸奥仙台藩(水沢藩)・留守氏(るすうじ)は源頼朝(みなもとよりとも)の奥州征伐後、陸奥国の留守職を務めた伊沢家景の末裔、伊沢家景の子・家元以降は留守氏(るすうじ)を称していたが、伊達姓を与えられ一門の家格に列し、同氏は水沢伊達氏と呼ばれる。

後藤新平(ごとうしんぺい)は、その水沢・留守氏(るすうじ)家臣・後藤実崇(ごとうさねたか)の長男として陸奥国胆沢郡塩釜村(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれている。

江戸時代後期の蘭学者・高野長英は新平(しんぺい)の大叔父に当たり、甥に昭和に活躍した政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩を持つ。

新平(しんぺい)は、維新後に設置された胆沢県(陸前国北部・陸中国南部)大参事であった安場保和(やすばやすかず)に認められ、後の海軍大将・斎藤実とともに十三歳で書生として引き立てられ県庁に勤務する。

その後、新平(しんぺい)は十五歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三(しょうむら しょうぞう)の下で門番兼雑用役になる。

安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると新平(しんぺい)は安場を頼り、十六歳で福島洋学校に入った。

千八百七十四年(明治十四年)、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の勧めも在って、新平(しんぺい)は十七歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学する。

同校を成績優秀で卒業した新平(しんぺい)には、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場保和(やすばやすかず)が愛知県令を務める事になり、新平(しんぺい)はそれに付いて行く事にして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。

愛知県医学校で医者と成った新平(しんぺい)はめざましく昇進し、千八百八十一年(明治十四年)二十四歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。

この愛知県医学校長時代に、新平(しんぺい)は岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助(いたがきたいすけ)を診察し、この時期に安場の次女・和子を妻にもらっている。

千八百八十二年(明治十五年)二月、二十五歳に成った新平(しんぺい)は愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事する事と成る。

千八百九十年(明治二十三年)三十三歳に成った新平(しんぺい)は、ドイツに留学するが、西洋文明の優れた部分を強く認める一方で「同時にコンプレックスを抱た」と言う。

帰国後、留学中の研究の成果を認められて新平(しんぺい)は医学博士号を与えられ、千八百九十二年(明治二十五年)には長与専斎の推薦で三十五歳で内務省衛生局長に就任した。

しかし翌千八百九十三年(明治二十六年)、新平(しんぺい)は相馬事件に巻き込まれて五ヶ月間に渡って収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞する破目となった。

相馬事件の二年後の千八百九十五年(明治二十八年)、三十八歳の新平(しんぺい)は友人の推薦で衛生局に復帰、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事する。

その陸軍検疫部事務長官としての行政手腕の巧みさから、この件の上司だった陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎(こだまげんたろう)の目に止まる。

その児玉が、千八百九十八年(明治三十一年)に台湾総督となると後藤新平(ごとうしんぺい)を抜擢し、自らの女房役である民政局長とした。

台湾総督府民政長官と成った新平(しんぺい)は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。

千九百六年(明治三十九年)、インフラ建設などの手腕を買われた新平(しんぺい)は台湾から満州に転身、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。

新平(しんぺい)は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用し、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていた袁世凱を中心とする北洋軍閥と交渉し、日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていた。

千九百十九年(大正八年)、後藤新平(ごとうしんぺい)は桂太郎(かつらたろう)が創立した元・台湾協会学校の「拓殖大学」の第三代学長に就任する。

拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者として度々入学式や卒業式で講演をし物心両面に於いて支援していた。

学長と成った新平(しんぺい)は、拓殖大学を大学令に基づく旧制大学に昇格を成し遂げるなど、亡くなる千九百二十九年(昭和四年)までの十年間で大学の礎を築いた。

その前後から第二次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁、寺内内閣で内務大臣・外務大臣、しばし国政から離れて東京市長を歴任する。

拓殖大学長兼務のまま、新平(しんぺい)は関東大震災(かんとうだいしんさい)直後の第二次山本内閣で、再び内務大臣等に就任した。

千九百二十三年(大正十二年)九月一日の正午寸前(一分三十秒ほど前)、関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生、日本の首都・東京府東京市とその周辺各地に甚大な被害を蒙る。

後藤新平(ごとうしんぺい)は、関東大震災の直後に組閣された第二次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として帝都の震災復興計画を立案し成果を為した。

千九百二十九年(昭和四年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で新平(しんぺい)は脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去。

三島通陽に新平(しんぺい)が倒れる日に残した言葉は「良く聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。良く覚えて置け」で在った。

新平(しんぺい)は、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった。

その原因として、第三次桂内閣の逓信大臣当時の第一次憲政擁護運動で前首相にして政友会総裁の西園寺公望(さいおんじきんもち)の失脚を画策し、最後の元老となった西園寺に嫌われていた事が大きいと徳富蘇峰が語っている。

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by mmcjiyodan | 2012-01-23 02:22 | Comments(0)  

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