池禅尼(いけのぜんに)・平清盛の継母

池禅尼(いけのぜんに)は、平清盛(たいらのきよもり)の継母に当たる平安時代末期の女性である。

出家以前の名を藤原宗子(ふじわらのむねこ)と称し、父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘にして中関白・藤原道隆の子・隆家の後裔に当たる待賢門院近臣家の出身だった。

義子に当たる平清盛(たいらのきよもり)については、「祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹」とされる異腹の女性の子説や白河天皇(しらかわてんのう)の御落胤説が在る。

藤原宗子(ふじわらのむねこ)は伊勢平氏流棟梁・平忠盛と結婚し、忠盛との間に家盛、頼盛という清盛とは腹違いの男児を産んでいる。

宗子(むねこ)の従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいた事から美福門院ともつながりが在るなど、夫の平忠盛を支える強力な人脈を持っていた。
また、近衛天皇崩御の後、皇位継承の可能性も在った崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母にも任ぜられている。

千百五十三年(仁平三年)、夫・忠盛が死去すると宗子(むねこ)は出家し、六波羅の池殿で暮らした事から池禅尼と呼ばれた。
その三年後の千百五十六年(保元元年)鳥羽法皇崩御により「保元の乱」が勃発すると、忠盛夫妻が重仁親王を後見する立場に在った事から平氏一門は難しい立場に立たされた。

しかし池禅尼(いけのぜんに)は崇徳方の敗北を予測して、息子・頼盛に義兄・清盛に確り付いて協力する事を命じた。
この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持する事に成功した。

更に三年後の千百五十九年(平治元年)の「平治の乱」に於いては複雑な政争を勝ち抜いた清盛が勝利し、その結果、源義朝ら他の有力武門が駆逐された。

その翌年、千百六十年(永暦元年)二月、敵将・源義朝の嫡子で十四歳の頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。

この際、池禅尼は清盛に対して「頼朝の助命を強力に嘆願した」と言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めた為、遂に清盛が折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。

この減刑、「平治物語」では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだった事から池禅尼が助命に奔走したとドラマチックに表現されている。

しかし実際には、頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。

その頼朝助命成功後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。

頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である平頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は朝廷堂上人及び幕府御家人として存続させている。

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by mmcjiyodan | 2012-03-16 15:48 | Comments(0)  

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