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徳川家定(とくがわいえさだ)

徳川家定(とくがわいえさだ)は、江戸幕府の第十三代征夷大将軍で、徳川宗家出身の最後の将軍である。

千八百二十四年(文政七年)四月八日、家定(とくがわいえさだ)は第十二代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の四男として江戸城で生まれる。

家慶(いえよし)の男子は家定(いえさだ)・慶昌ら十四人の男がいたが、二十歳を超えて生きたのは家定(いえさだ)だけでほとんど早世し、生き残っていたのはこの家定(いえさだ)だけで在った。

しかしその家定(いえさだ)も幼少の頃から病弱で、「人前に出る事を極端に嫌う性格だった」と言われている。

その為に家定(いえさだ)は、乳母である歌橋(うたはし)にしか「心を開かなかった」と伝えられ、一説には「脳性麻痺で在った」とも言われる。

つまり「虚弱精子劣性遺伝」が顕著に出た形で、春日局(かすがのつぼね)の構築した「大奥のシステム」、「多くの女性に将軍一人」と言う血統の保存継続は、あくまでも氏族の血統重視論理で在る。

従って「大奥のシステム」は人類の「種の保存」と言う自然の法則とは真逆であり合致しないものだった。

千八百四十一年(天保十二年)に大御所・徳川家斉(第十一代将軍・家定の祖父)の死去後、家定(いえさだ)は(第十二代将軍・家慶/いえよし)の世嗣となる。

しかし家慶(いえよし)は、家定(いえさだ)の器量を心配して、一時は「一橋家の一橋慶喜(徳川慶喜/とくがわよしのぶ)を将軍継嗣にしよう」と考えたほどだが、老中・阿部正弘らが反対した為、結局は家定を将軍継嗣とした。千八百五十三年(嘉永六年)、家慶(いえよし)が黒船来航の後に六十一歳で病死した事を受け、家定(いえさだ)は将軍を後継し第十三代将軍となった。

家定(いえさだ)は正室として公家・鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の娘・任子(天親院有君)や公家・一条忠良(いちじょう ただよし)の娘・秀子(澄心院寿明君)を迎えた。

だがいずれも早世し、島津斉彬(しまづなりあきら)が画策した近衛忠煕(このえただひろ)の養女・敬子(天璋院・篤姫)との間にも実子は生まれなかった。

家定(いえさだ)に男子が無かった為、将軍在位中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した千八百五十七年(安政四年)頃からそれが激化する。

家定(いえさだ)の後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主の徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。

家定(いえさだ)は、この将軍継嗣問題でも表舞台に出る事はほとんど無かったが、千八百五十八年(安政五年)陰暦六月二十五日、諸大名を招集して「慶福(よしとみ)を将軍継嗣にする」と言う意向を伝える。

その意向伝達から二ヵ月も経たない同年(安政五年)の陰暦七月五日に「一橋派の諸大名の処分を発表する」と言う異例の行動を見せるも、家定(いえさだ)が将軍らしい行動を見せたのはこれが最初で最後である。

翌日の千八百五十八年(安政五年)陰暦七月六日、家定(いえさだ)は薨去し、後を養子となった慶福(よしとみ)改め徳川家茂(とくがわいえもち)が第十四代征夷大将軍を継いだ。

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by mmcjiyodan | 2012-03-30 09:27 | Comments(0)  

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