長谷川氏(はせがわうじ、はせかわうじ)

江戸時代の十代将軍・徳川家治の治世時、旗本に火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)が居る。
小説「鬼平犯科帳」の主人公としてテレビドラマ化され、現代に知名度が高い人物である。

しかしこの長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)、火付盗賊改役は四十二歳で拝命し八年間勤め上げた知行四百石の小物旗本である。

確かに大物凶悪犯グループを捕らえて庶民の評判は高かったが、幕閣に在って独断専行が多く、上司同僚の評価はイマイチで、知行の加増も出世は無かった。

ただ、長谷川氏としての知名度では宣以(のぶため/平蔵)が、現代では広く知られた存在に違いない。

ここで氏族・長谷川氏を紹介する。

長谷川(はせがわ、はせかわ)氏は、人口三十七万人強で全国三十四位の日本の氏族姓である。

本姓は中臣藤原流で、中臣姓・中原氏、藤原秀郷流藤原利仁系など幾つかの流れがある。

藤原姓の源流・中臣姓・中原氏系の長谷川氏は、大和国(奈良県十市郡)十市県主(といちあがたぬし)の裔にあたる。

藤原秀郷流・長谷川氏の家系は下野国(栃木県)の藤原秀郷系の家系であり、美濃長谷川藩、後の江戸時代の旗本である長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)の家系が先祖とする流れである。

藤原秀郷系長谷川氏は、中臣鎌足の流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の二系統がある。

この長谷川氏は、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏)の一家である。

尾藤氏流長谷川氏は、佐藤氏の分家・尾藤氏のさらに庶流にあたる。

佐藤公清の庶子・公澄の四世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏を名乗る)の末裔で、二十二代後の宗茂が長谷川氏を名乗ったと言う。

長谷川宗茂の曾孫が長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時「美濃長谷川藩(一万石)」を立てている。

この系統は守知の嫡男・正尚のとき三弟の守勝に三千百十石ほどを分与、分割相続により六千八百九十石取りの旗本となったが本家は無嗣断絶し、守勝の分家が存続した。

尾藤氏流・下河辺氏は、小山氏の一族たる下河辺氏を出自とする地方豪族である。

下河辺氏の祖たる下河辺政義の子・小川政平の末裔である。

政平の子孫・政宣が大和国長谷川に住んだ為、長谷川氏を名乗ったという。

長谷川政宣の系統は駿河国小川郷(現・静岡県焼津市)に拠り、小川法永長者と称されたとされる。

この法永長者・長谷川氏の子孫が駿河戦国大名・今川氏に仕えた。

その後長谷川正長の時、君主・今川義元桶狭間の戦いで討死した為没落、再度徳川家康に召抱えられるも三方ヶ原の戦いで討死した。

長谷川正長には正成・宣次・正吉の三子があり、正成系は千七百五十石(のち分割相続により減り千四百五十石)で江戸時代を存続した。

この家系の分家から長谷川宣以(はせがわのぶため/平蔵)が出ている。

正吉系は四千七十石(一時五百石を加増されたが分割相続により減少)で幕末に至った。

尚、三男・宣次系は四百石で続いた。

長谷川氏には、越中国(富山県)の藤原利仁系の家系の長谷川氏もある。

また、在原姓(平城天皇裔)・長谷川党も長谷川氏を名乗り、大和国式上郡長谷を発祥地とされ、法貴寺荘(現磯城郡田原本町法貴寺)を根拠地としたとみられ、長谷川党・法貴寺党とも言われる。

その他として清和源氏満政流を祖とする、今川義元に仕えた摂津清和源氏系長谷川氏の長谷川長久とその子・長谷川長綱の家系、美濃国(岐阜県)の橘氏系長谷川氏の家系が在る。

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by mmcjiyodan | 2012-05-08 00:07 | Comments(1)  

Commented by 長さん at 2012-05-10 16:52 x
小川政平の子孫・小川政宣の流派は、大和国長谷川に定住したと言うよりも、在原姓(平城天皇裔)・長谷川党の名前を乗っ取って自らが長谷川氏に改名した後、在原姓の関西系と下河辺氏流の関東系とが適当に人員を水増しして合体し、小山義政支配下の下河辺荘へと、Uターンしたあと、鎌倉幕府の滅亡で空白となっていた当地を、適当に占拠・跋扈していたのだと疑われます。

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