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前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)〔ニ〕

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前田利家の能登・前田家に仕官した前田利久とその養子・慶次郎利益(けいじろう・とします)は、親子で都合七千石を与えられ、利家に従って転戦していた。

千五百八十二年六月二十一日(天正十年六月二日)、京都に宿泊していた織田信長を家臣・明智光秀が襲い信長を自刃させる「本能寺の変」が起きる。

織田信長四天王(柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀滝川一益)の一人・滝川一益は、「本能寺の変」当時は上州上野国群馬郡・厩橋城(前橋城)に在って関東に一大勢力を築いていた北条氏と対峙していた。

真田家の史料「加沢記」記述では、この時に慶次郎利益(けいじろう・とします)は、滝川勢の先手となっている。

千五百八十四年(天正十二)の小牧・長久手の戦いでは、慶次郎(けいじろう)は佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう。

その際に、佐々方から寝返った阿尾城の城代に利家に任じられ、同城奪還に向かった神保氏張らの軍勢と交戦する。

千五百八十七年(天正十五年)八月、義父・利久が没した事により慶次郎(けいじろう)の嫡男・前田正虎が利家に仕え、利久の封地ニ千石をそのまま給された。

千五百九十年(天正十八年)三月、豊臣秀吉小田原征伐が始まると主君・前田利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征する事になった。

慶次郎利益(けいじろう・とします)もこれに従い、次いで利家が陸奥地方の検田使を仰付かった事により慶次郎利益(けいじろう・とします)もまたこれに随行した。

しかし陸奥地方の検田使随行以降、慶次郎(けいじろう)が利家と仲違いした為、又は養子と言う事で利久の死を契機に縁が薄くなった事によって前田家を出奔する。

尚、嫡男・正虎を始め妻子一同は、この時慶次郎利益(けいじろう・とします)に随行せず加賀前田家に残って義理の従兄弟にあたる初代藩主・前田利長、次いで二代藩主・前田利常に仕えた。

出奔した慶次郎利益(けいじろう・とします)は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴・昌叱父子や九条稙通・古田織部ら多数の文人と交流したと言う。

ただ慶次郎(けいじろう)は、歌人「似生」として千五百八十二年(天正十年)には既に京都での連歌会に出席した記録があり、出奔以前から京都で文化活動を行っていたと考えられている。

その後、慶次郎利益(けいじろう・とします)は、上杉景勝とその執政・直江兼続の知遇を得て、上杉氏に仕官している。

仕官したのは、景勝が豊臣秀吉に越後から会津百二十万石に移封された千五百九十八年(慶長三年)から関ヶ原の戦いが起こった千六百年(慶長五年)までの間の事である。

慶次郎利益(けいじろう・とします)は、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として千石を受けた。

慶次郎利益(けいじろう・とします)の人物評として、周囲を小ばかにする言動の逸話が散見され、けして出世に媚びない所が彼の魅力と見られていた。

しかし出世に媚びない所が、慶次郎利益(けいじろう・とします)を中の下、千石~五千石位の武将の地位に止まらせたのかも知れない。

関ヶ原の役に際しては、主君・上杉景勝が石田三成に呼応して西軍として立ち、徳川家康を奥州まで呼び寄せる作戦を実行する。

慶次郎(けいじろう)は「西軍の上杉景勝が東軍の最上義光を侵攻した慶長出羽合戦・長谷堂城の戦いに出陣し、功を立てた」とされる。

だが、慶次郎(けいじろう)の奮戦空しく西軍は敗退し、主家・上杉氏が三十万石に減封され米沢に移される。

関ヶ原の役の戦後処理により、上杉氏が三十万石に減封され米沢に移されると、慶次郎(けいじろう)はこれに従って米沢藩に仕える。

米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森)で、「慶次清水と呼ばれる」所に隠棲し、千六百十二年(慶長十七年)六月四日に隠棲の地・堂森で没している。

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by mmcjiyodan | 2012-06-19 00:43  

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