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藤原(通憲)信西(ふじわらのみちのり/しんぜい)

平安時代末期、平清盛が漸く青年に成った頃、十二歳年上の藤原(通憲)信西(ふじわらのみちのり/しんぜい)が居た。

藤原(通憲)信西(ふじわらのみちのり/しんぜい)は藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子で、平治の乱の主役の一人である。

通憲(みちのり/信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭で在った。

しかし父・実兼が千百十二年(天永三年)に蔵人所で急死した為、通憲は七歳で縁戚であった高階経敏(たかしなのつねとし)の養子となる。

高階氏(たかしなうじ)は院近臣・摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。

通憲(みちのり/信西)は養子に入った高階氏の庇護の下で学業に励み、大学頭だった父祖譲りの学才を磨き上げて行く。

千百二十一年(保安ニ年)、十六歳の通憲(みちのり/信西)は養父・経敏と「はとこの関係」である高階重仲の女を妻としている。

通憲(みちのり/信西)は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる。

「永昌記」に拠ると、通憲(みちのり/信西)の官位の初見は天治元年四月二十三日(千百二十四年)の条の中宮少進(中宮・藤原璋子/ふじわらのしょうし)の記述である。

通憲(みちのり/信西)は、その年十一月の璋子(しょうし)の院号宣下(いんごうせんげ)に伴い待賢門院蔵人(じけんもんいんくらんど)に補された。

その後通憲(みちのり/信西)は、璋子の子である崇徳天皇(すとくてんのう/第七十五代)の六位蔵人(ろくいのくらんど)も務めたが、千百二十七年(大治二年)に叙爵して、蔵人の任を解かれた。

この年、通憲(みちのり/信西)ニ人目の妻である藤原朝子が、鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母に選ばれている。

散位(位階のみを持つが執掌を持たず)となった通憲(みちのり/信西)は、千百三十三年(長承二年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになる。

当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に、通憲(みちのり/信西)は院殿上人、院判官代とその地位を上昇させて行った。

その後通憲(みちのり/信西)は、日向守に任命されると伴に、「法曹類林(法令集と判例集)」の編纂も行っている。

通憲(みちのり/信西)の願いは、実家の曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。

しかし、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みで、高階氏の戸籍に入った通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなっていた。

また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していて道は絶たれたも同然で、失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになる。

「台記」に拠ると、遁世の噂を耳にした藤原頼長(ふじわらのよりなが)は、通憲(みちのり/信西)に書状を送って数日後、通憲と頼長は対面を果たしている。

鳥羽上皇の第四皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母がニ人目の妻・藤原朝子だった事の縁で、上皇は出家を思い止まらせようと配慮する。

千百四十三年(康治二年)に鳥羽上皇は、通憲(みちのり/信西)を正五位下、翌千百四十四年(天養元年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命する。

更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任する為に必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えた。

それでも通憲(みちのり/信西)の意思は固く、同千百四十四年七月ニ十二日に出家してこの時「信西」と名乗った。

出家しても俗界に想いを残していた「信西(しんぜい)」は、千百四十八年(久安四年)鳥羽法皇の政治顧問だった葉室(藤原)顕頼(あきより)が死去すると、顕頼の子が若年だった事からその地位を奪取する事に成功する。

「信西(しんぜい)」が鳥羽上皇の信任を得る中、千百五十五年(久寿二年)に近衛天皇が崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。

後継候補としては重仁親王(しげひとしんのう)が最有力だったが、美福門院(びふくもんいん・藤原得子/ふじわらのなりこ)のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が後継と決められた。

若い守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(後白河天皇)が立太子しないまま二十九歳で即位する事になった。

守仁親王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がった為である。

この突然の雅仁親王擁立の背景には、上皇の第四皇子・雅仁親王を妻・朝子を乳母に養育していた信西の「策動があった」と推測される。

後白河天皇(雅仁親王)が即位して信西の権力が高まり、この辺りから大乱の兆しが始まっていた。

千百五十六年(保元元年)七月、鳥羽法皇が崩御する。
信西はその鳥羽法皇の葬儀を取り仕切り、直後には対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み「保元の乱」が起こる。

この際、信西は源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。

乱後の処理として、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。

また、信西は摂関家の弱体化と天皇親政を進め、保元新制を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行い、大内裏の再建や相撲節会の復活など、絶大な権力を振るう。

この政策を行なう上で強引な政治の刷新は反発を招き、信西は自分の息子たちを要職に就けた事が旧来の院近臣や貴族の反感を買った。

一方、千百五十八年(保元三年)八月には後白河天皇が院に退き、鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした雅仁親王(二条天皇)が即位する。

この皇位継承は美福門院と信西の協議で行われ、「仏と仏との評定」と評された。

この二条天皇の即位に伴い、信西も二条天皇の側近に自分の子を送り込む。

今度はその事が天皇側近の反感を招き、後白河院近臣、二条天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。

やがて後白河院政派の藤原信頼(ふじわらののぶより)、二条天皇親政派の大炊御門経宗(おおいのみかどつねたか/藤原経宗)、葉室惟方(はむろこれかた/藤原惟方)らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出す事になる。

藤原信頼は武門の旗頭・源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保(摂津源氏)も味方につけ、軍事的な力を有するようになって行く。

最大の軍事貴族である平清盛は、その中に在って信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた。

千百五十九年(平治元年)十二月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は後白河院御所の三条殿を襲撃、「平治の乱」が勃発する。

信西は事前に危機を察知して乳母の子・藤原師光(ふじわらのもろみつ)らと山城国の田原に避難していた。

しかし、三条殿襲撃の知らせを聞くと追手からの逃亡を諦め、師光(もろみつ)らの郎党に命じて自らを地中に埋めさせて自害した。

行方を捜索していた源光保(摂津源氏)は死体を地中から掘り起こし、首を切って京に戻り首は西の獄門の棟木にさらされた。

信西の死については、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、追手に発見され掘り返された際に「自ら首を突いて自害した」と言う説も在る。

信西は学問に優れ、藤原頼長(ふじわらのよりなが)と並ぶ当代屈指の碩学として知られたが、その才能故に多くの敵も作ったのだ。

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by mmcjiyodan | 2012-07-13 14:38  

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