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板垣退助(いたがきたいすけ)〔ニ〕

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千八百七十四年(明治七年)、板垣退助(いたがきたいすけ)は高知に立志社を設立、同時に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと民選議院設立建白書を建議したが却下された。

翌千八百七十五年(明治八年)に退助(たいすけ)は参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。

千八百八十一年(明治十四年)、十年後に帝国議会を開設すると言う国会開設の詔が出されたのを機に、退助(たいすけ)は自由党を結成して党総理(党首)となった。

自由党の党勢拡大に努めて全国を遊説していた退助(たいすけ)は、千八百八十ニ年(明治十五年)四月岐阜で遊説中に暴漢・相原尚?に襲われ負傷したする。

その際、板垣が起き上がり、出血しながら述べた「吾死スルトモ自由ハ死セン」は、広く人々に、そして後世に「板垣死すとも自由は死せず」と伝わる事になった。

尚、この岐阜事件の時、退助(たいすけ)を診察した医者が、後に政治家となった後藤新平でだった。

退助(たいすけ)は後藤の才を見抜き、「彼を政治家にできないのが残念だ」と語ったが、後に後藤新平は退助(たいすけ)の希望通り政治家となった。

同じ千八百八十ニ年(明治十五年)十一月、退助(たいすけ)は後藤象二郎と洋行し、翌年の六月に帰国した。

洋行から帰国した翌千八百八十四年、(明治十七年)十月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党する。

退助(たいすけ)は、自由民権運動家の立場から華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていた。

所が退助(たいすけ)は、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたると言う故事)を周囲から諭され、千八百八十七年(明治二十年)三度目にしてやむなく伯爵位を授爵した。

その結果、退助(たいすけ)は衆議院議員となる事はなく、また、貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退した為、帝国議会に議席を持つ事はなかった。

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた退助(たいすけ)は林有造らとともに愛国公党を再び組織して第一回衆議院議員総選挙に対応した。

千八百九十年(明治二十三年)、帝国議会開設後に退助(たいすけ)は河野広中や大井憲太郎らと伴に旧自由党各派を統合して立憲自由党を再興し、翌年には自由党に改称して自由党総理に就任した。

千八百九十六年(明治二十九年)、退助(たいすけ)は第二次伊藤内閣で内務大臣、次の第二次松方内閣でも内務大臣を留任したがすぐに辞任した。

千八百九十八年(明治三十一年)、退助(たいすけ)は対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。

この為、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせ、この内閣の通称を隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれる。
しかし、隈板内閣(わいはんないかく)は内紛が激しく、僅か四ヶ月で総辞職せざるをえなくなる。

退助(たいすけ)は千九百年(明治三十三年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

板垣退助(いたがきたいすけ)は自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。

没後も民主政治の草分けとして人気が高く、退助(たいすけ)は第二次世界大戦後は五十銭政府紙幣、日本銀行券B百円券に肖像が用いられた。

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by mmcjiyodan | 2012-07-20 17:11  

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