副島種臣(そえじまたねおみ)
種臣(たねおみ)は千八百二十六年(文政十一年)、三十石取りの佐賀藩下士・枝吉南濠(えだよしなんごう)の二男に生まれる。
父・枝吉南濠(えだよしなんごう)は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者で、後に「佐賀の吉田松陰」と称えられる枝吉神陽(えだよししんよう)である。
千八百五十九年(安政六年)には父の南濠が死去し、兄・神陽(しんよう)が家督を継いだ為、同年に種臣(たねおみ)は同藩士の副島利忠(そえじまとしただ)の養子となる。種臣(たねおみ)は父・南濠(なんごう)や兄兄・神陽(しんよう)の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚め弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。
千八百五十年(嘉永三年)、種臣(たねおみ)は兄・神陽(しんよう)が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。
種臣(たねおみ)は千八百五十ニ年(嘉永五年)京都に遊学、漢学・国学などを学ぶが、義祭同盟員として都に於ける情勢を収拾する目的も在った。
この間に種臣(たねおみ)は、後の明治三年に東京に召され、大学中博士となる矢野玄道(やのはるみち/国学者・神道学者)らと交わる。
さらに、兄・神陽(しんよう)の命を受け大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出する。
この意見書を期に、青蓮院宮・朝彦親王(久邇宮朝彦親王/くにのみや あさひこしんのう・中川宮)から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。
千八百六十四年(元治元年)、種臣(たねおみ)は長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。
千八百六十七年(慶応三年)、種臣(たねおみ)は盟友・大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
その後、薩長勢力が幕府軍を圧倒、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を為すと土佐藩は、種臣(たねおみ)を始め江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくましげのぶ)、山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)らを指揮官に登用して東征軍に参加する。
東征軍参加の功により、土佐藩軍勢の指揮官達は明治維新後、新政府の要職に席を得ている。
副島種臣(そえじまたねおみ)は、千八百六十四年(慶応四年)新政府の参与・制度取調局判事となり、土佐藩士だった徴士参与・福岡孝悌(ふくおかたかちか)と「政体書」の起草に携わる。
種臣(たねおみ)は千八百六十九年(明治二年)に参議、千八百七十一年(明治四年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件に於いて活躍する。
千八百七十三年(明治六年)二月、維新後初の海外出兵となった千八百七十一年(明治四年)に起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣される。
種臣(たねおみ)は清朝相手に日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈及び交渉にあたった。
この交渉の間、清朝高官との詩文交換で種臣(たねおみ)はその博学ぶりを評価をされている。
しかし対清朝の同年(明治六年)十月、種臣(たねおみ)は征韓論争に敗れて下野し、千八百七十四年(明治七年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加する。
同年(明治七年)には民撰議院設立建白書を提出したものの、種臣(たねおみ)は自由民権運動には参加しなかった。
西郷隆盛らが起こした西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
その後種臣(たねおみ)は官僚に復帰、宮中顧問官や枢密顧問官、政治家として枢密院副議長、翌年の千八百九十二年(明治二十五年)には第一次松方内閣に於いて内務大臣を務めている。
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