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堀秀政(ほりひでまさ)と堀家四代〔二〕

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千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高・榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。

しかし秀政(ひでまさ)は、全体の戦況を把握して家康本隊とは戦わず退却する。

千六百八十五年(天正十三年)、豊臣秀吉が関白になると秀政(ひでまさ)は従四位下・侍従兼左衛門督に叙任される。

同年の紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)四国平定戦による軍功により秀政(ひでまさ)は丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に十八万石を与えられ、与力に加賀小松の将・村上義明、加賀大聖寺の将・溝口秀勝が付けられた。

豊臣秀吉に重用されて十八万石の中堅大名にまで栄進、父である秀重(ひでしげ)もその下で主に代官的な政務補佐を担当し活躍した。

千五百八十六年(天正十四年)には、同僚の長谷川秀一とともに昇殿を許された。

なお、秀政(ひでまさ)が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった。

千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐にも参陣して秀政(ひでまさ)は先鋒部隊を任される。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられ、箱根口を攻め上り、山中城を陥落させる。

秀政(ひでまさ)は小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。

しかし五月下旬に疫病を患い、秀政(ひでまさ)は三十八歳の若さで小田原征伐の陣中にて急死する。

堀家の家督は秀政・長男の堀秀治(ほりひではる)が継いだ。

秀政(ひでまさ)は神奈川県小田原市の海蔵寺に一旦葬られたが、髷だけは領内に持ち帰られ、福井県北之庄(福井市)の居館近くの長慶寺に墓が建てられた。

秀政(ひでまさ)のなきがらは、後に堀家が転封となった際、新潟県上越市春日山城の林泉寺に改葬されている。
福井県福井市の長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺では毎年五月に供養祭が行なわれている。

堀秀治(ほりひではる)は、千五百九十年(天正十八年)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父・秀政(ひでまさ)がその時に陣中にて病死した為、長男として家督を継ぐ事となった。

千五百九十年(天正十八年)冬、堀秀治(ほりひではる)は小田原攻めの功により父同様に豊臣姓を与えられる。

千五百九十二年(文禄元年)の文禄の役(朝鮮征伐)では肥前名護屋城に参陣し、翌千五百九十三年(文禄二年)には伏見城工事に貢献した。

これらの功績から、豊臣秀吉の死の直前の千五百九十八年(慶長三年)四月、越前北ノ庄十八万石から越後国春日山三十万石へ加増移封される。

ただし秀吉の命令で、与力の付属大名も越後に移った為、堀家の家臣団は複雑な構造となり、秀治(ひではる)の知行裁量権も実質十万石余程度しか及ばなかったとされる。

堀秀治(ほりひではる)が越後春日山三十万石に移封されると、祖父に当たる堀秀重(ほりひでしげ)がその後見役となり、秀吉から一万四百石の所領を与えられた。

越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が領主交代の時は半分を残す事が例とされていたのに年貢米を全て会津に運び出していた為、堀家は財政的に困窮した。

秀治(ひではる)は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、千五百九十八年(慶長三年)八月に秀吉が死去すると家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送る。

千六百年(慶長五年)に秀治(ひではる)が福嶋の地に居城移転の計画を立てた頃、関ヶ原の戦いが起こる。

秀治(ひではる)は東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉景勝旧臣・神官・僧侶の一揆(越後一揆、上杉遺民一揆)を鎮圧した。

一揆の直接原因は、東軍かく乱を目的とした上杉景勝・直江兼続の命令である。

但し堀家は直江に年貢を持ち出されて財政が困窮していた。

財政強化の為に堀検地を実施して漆などにも年貢をかけ領民の不満が高まり、寺社統制も強めて真言潰しと称される真言宗弾圧を行なった事も一揆の原因とする説もある。

戦後、東軍に与した功により、秀治(ひではる)は徳川家康から所領を安堵される。

六年後の千六百六年(慶長十一年)五月、天下分け目の関ヶ原の戦いを乗り切った秀治(ひではる)は、三十一歳の若さで死去し、跡を嫡男の忠俊(ただとし)が継いだ。

堀忠俊(ほりただとし)は家老・堀直政の尽力により、本多忠政の娘・国姫を大御所・徳川家康の養女として娶り、また将軍・秀忠から諱一字と松平姓を賜わる。

忠俊(ただとし)は急速に徳川氏に接近して家の存続を図るも、その努力は空しかった。家老・直政死後の千六百十年(慶長十五年)、直政・長男で三条五万石の城主・堀家の執政家老・堀直清と直政の次男(または三男)で蔵王堂五万石の城主堀直寄との争乱を発端とする御家騒動が勃発する。

この騒動により、幕府は閏二月に日に忠俊(ただとし)と直清を改易、直寄を一万石減封して四万石に処した。

ここに堀家四代の血と汗で購(あがな)わられた越後福嶋三十万石は夢と消え、改易後の忠俊(ただとし)は磐城平藩主・鳥居忠政へ預けられ、「茶の湯のみを楽しみとした」と、その後が侘(わび)しく伝わっている。

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by mmcjiyodan | 2012-10-15 01:03  

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