森氏(もりうじ)・森長可(もりながよし)〔一〕

戦国時代から安土桃山時代の初期にか掛けて織田信長に仕え、一時は二十万石の太守に成った森長可(もりながよし)を称する若くして生涯を終えた猛将が居た。

森長可(もりながよし)の森氏(もりうじ)は、清和源氏の一家系・河内源氏の棟梁である八幡太郎源義家の七男(六男説あり)・源義隆(みなもとのよしたか)を祖とする。

義家の七男・義隆(よしたか)が相模国愛甲郡・毛利庄(もりのしょう)の領主となって森冠者(もりのかんじゃ)と名乗り、その三男、源頼隆は後に若槻を号するが出家の後は森蔵人入道(もりくらんどにゅうどう)西阿(にしあ)と称した。

源義隆(みなもとのよしたか)は、相模国毛利庄を領し、千百五十九年(平治元年)の平治の乱で、長男・源義朝(みなもとよしとも)に従って参戦するも平氏に敗れる。

平清盛に敗れて兄・源義朝と伴に東国へ落ち延びる際、比叡山の竜華越で落ち武者狩りに遭遇、兄・源義朝の盾と成って落命する。

義隆流森氏が、本格的に森氏(もりうじ)を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男であるとされる森頼定が森姓を称した事によるとされる。

遠祖・源陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓・毛利氏(もりうじ)とは、名字の表記に多少の差異はあるものの、「名字の地」即ち名字発祥の地を同じくするされる。

長可(ながよし)は、その源義隆(みなもとのよしたか)を祖とする源姓・森氏を名乗って戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将・大名である。

父・森可成(もりよしなり)の次男として生まれ、兄・森可隆、弟・森成利(蘭丸)らが居たが千五百七十年(元亀元年)に父・可成、兄の可隆が相次いで戦死する。

為に長可(ながよし)は、僅か十三歳で森家の家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。

千五百七十三年(元亀四年)三月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに信長の継嗣・織田信忠の部隊に参加して十六歳で初陣を果たす。

この一揆攻めで、長可(ながよし)が総大将と仰いだ織田信忠は、長可(ながよし)より一歳年長の十七歳である。

父親の信長としては、信忠に同じ世代の長可(ながよし)をご学友みたいにつける配慮だったのかも知れない。

長可(ながよし)は稲葉良通(一鉄)、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正(かがみもとまさ)などが功を挙げ信長よりその働きを称された。

その後長可(ながよし)は、槇島城の戦い、第三次長島一向一揆攻めなどで世に武勇を見せる。

千五百七十五年(天正三年)以後、長可(ながよし)は織田信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。

千五百八十二年(天正十年)の甲州征伐(武田勝頼(たけだかつより)攻め)に於いては、長可(ながよし)は団忠正(だんただまさ)と共に先鋒部隊の将として抜擢される。

信濃国の武田領へと侵攻した団と長可(ながよし)は奮闘し、松尾城・小笠原信嶺、飯田城・保科正直、高遠城・仁科盛信、などを降伏または潰走させるなど戦果を挙げる。

長可(ながよし)はそのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たる。

これらの戦功から、千五百八十二年(天正十年)に長可(ながよし)は武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)二十万石と海津城を与えられた。

また長可(ながよし)の旧領である金山領(美濃国金山)は弟の森成利(蘭丸)に与えられている。

信濃入領後の長可(ながよし)は、上杉氏と結んで反抗する旧武田家臣や信濃国衆を追放し、統治支配を確立する。

長可(ながよし)は、上杉景勝と対峙する柴田勝家の援軍として越後に侵攻し、二本木に陣を張って上杉氏本城・春日山城に迫る。

この出陣により、上杉景勝は春日山城防衛の為に魚津城救援を諦め、景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し、上杉軍は越中国に於ける重要な拠点を失う。

越後に侵攻し、柴田勝家の魚津城攻略に与力した森長可(もりながよし)は、信長に武功を称される筈だった。

所が、突然の異変で長可(ながよし)の運命は少しづつ暗転して行く。

越後に侵攻して間もない六月初旬、主君・織田信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれてしまったのだ。

この異変で、敵地深く進攻していた長可(ながよし)は一転して窮地に立たされ、四日後には二本木の陣を払って越後国から撤退する。

軍議を開いて信長の仇を討つ事を決定するも、力ずくで配下にしたばかりの信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっていた。

そうなると長可(ながよし)は、勝手に信濃の領主として乗り込んで来た男である。

信濃国衆たちは出浦盛清(いでうらもりきよ)を除いてほぼ全員が裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。

止む無く長可(ながよし)は木曽谷方面へと撤退し、旧領・東美濃で軍勢の体制を整える為に行軍する。

森氏(もりうじ)・森長可(もりながよし)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2012-10-19 20:00 | Comments(0)  

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