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村井貞勝(むらいさだかつ)

織田信長の官僚家臣として信長支配体制を支えた村井貞勝(むらいさだかつ)の出身は近江国と言われているが、出自の詳細は伝わっては居ない。

貞勝(さだかつ)は行政手腕に長けていた為め、織田信長から厚い信任を受けて、早期より奉行として重用される。

千五百四十年(天文十八)、貞勝(さだかつ)は信長の奉行として連署して以来、織田政権下を通じて庶政に当たる。

千五百五十六年(弘治二年)に織田信勝(信行)が兄の信長に叛旗を翻した時には既に信長に仕えていたので、貞勝(さだかつ)は信長の臣としては古くから居た人物である。

この織田信勝(信行)事件では、島田秀満(秀順)と共に信長生母・土田御前(どたごぜん)の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和平交渉を行った。

千五百六十七年(永禄十年)、森可成(もりながよし)によって稲葉良通(いなばよしみち)ら西美濃三人衆の降誘の際、貞勝(さだかつ)は人質受け取りの実務を担当する。

千五百六十八年(永禄十一年)九月、信長が足利義昭を奉じて共に上洛した際も貞勝(さだかつ)は同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。

また、貞勝(さだかつ)は足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など織田家の政務を担う。

信長の上洛時に貞勝(さだかつ)は、朝山日乗(あさやまにちじょう/ちようざんにちじょう説あり)と共に京都御所の修築も担当、また明智光秀とともに京都の施政に当たっている。

千五百七十三年(天正元年)七月、信長の怒りを買った足利義昭(あしかがよしあき)が逃亡して芸州・毛利家に身を寄せる。

将軍・足利義昭を追放した信長が、京都を完全支配下に置いて室町幕府が滅亡した。
この時貞勝(さだかつ)は、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられるなど信長の最も信頼する吏僚の一員であった。

所謂(いわゆる)朝廷事情通の明智光秀に対して、朝廷との実務交渉は織田家京都所司代・貞勝(さだかつ)が信長の代行者として任じて居た。

貞勝(さだかつ)は信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、凡そ信長支配体制下に於ける京都に関する行政の全てを任されている。

千五百七十九年(天正三年)四月、信長は困窮した公家を救う為、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。

この徳政令に貞勝(さだかつ)は、丹羽長秀(にわながひで)と伴に土地や文書の調査や係争を担当した。

同千五百七十九年(天正三年)七月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。

千五百八十年(天正八年)二月、信長は京都での居住場所を本能寺に移す事に決め、貞勝(さだかつ)に普請を命じた。

翌千五百八十一年(天正九年)、貞勝(さだかつ)は出家して村井春長軒と号し、家督を子の村井貞成に譲っている。

千五百八十二年(天正十年)五月、貞勝(さだかつ)は朝廷から「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」と言う意向を伝えられた。

所謂、三職推任(三官推任)であるが、信長はせせら笑って相手にせず朝廷も困り果てたが、三職推任(三官推任)には「貞勝(さだかつ)の方から言い出した」と言う説がある。

同、千五百八十二年(天正十年)六月、本能寺の変では貞勝(さだかつ)は本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。

信忠に二条新御所への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠と共に貞勝(さだかつ)貞成親子も討死した。

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by mmcjiyodan | 2012-10-23 01:39  

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