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斯波義統(しばよしむね)

斯波義統(しばよしむね)は、尾張守護・斯波氏(武衛家)・斯波義達の嫡男として誕生し、下克上(げこくじょう)の時代でなければ、織田信長は義統(よしむね)の陪臣に過ぎない立場だった。

弾正忠家・織田信秀(信長の父)が頭角を現す頃の尾張国は、室町幕府の統制が聞かない戦国期に突入して戦乱の最中だった。

当時の尾張守護・斯波氏(武衛家)は隣国・駿河守護の今川氏・今川氏親(いまがわうじちか)の攻勢を受けて、守護国のひとつであった遠江(とおとうみ)国を奪われるなど劣勢に立たされていた。

この為、尾張守護・斯波義達は遠江奪還に強い意欲を見せ、国主として盛んに遠江に出兵を繰り返していた。

この出兵には斯波氏の重臣である織田氏が挙って反対し、終(つ)いには守護代の織田達定が反義達を掲げて挙兵し、守護対守護代の合戦に至るほどであった。

結局この合戦では守護・斯波義達が守護代・織田達定を討伐して守護代勢力を壊滅させると、尚も遠江(とおとうみ)出兵を続行させた。

しかし千五百十五年(永正十二年)に守護・義達は今川氏親(いまがわうじちか)に大敗し自身も捕虜になる屈辱を受けてしまう。

すると義達は、僅(わず)か三歳の嫡男・義統(よしむね)に守護職を譲り、数年後には失意の内に病没してしまった。

守護・義達の病没に依り、義達に拠って一時弱体化していた織田氏は勢力を回復して行く事になった。

元々尾張では、応仁の乱以降、守護代である織田一族が上四郡を支配する「伊勢守家(岩倉織田氏)」と下四郡を支配する「大和守家(清洲織田氏)」の二系に分裂していた。

まず伊勢守家が早くに弱体化し、次に大和守家が義達によって討伐された為め、尾張国内は織田一族が入り乱れる群雄割拠状態となった。

幼い守護・義統(よしむね)にはこの状況をどうする事もできず、かつて父・義達に討伐された守護代家(大和守家)の織田達勝・織田信友に擁される傀儡(かいらい)的存在になるのみであった。

群雄割拠状態となった尾張国内では、特に津島経済を掌握する織田信秀の織田弾正忠家(大和家の家臣)の台頭が目覚しい隆盛を見せていた。

達勝・信友としては、上四郡の守護代である伊勢守家の織田信安や台頭著しい弾正忠家の織田信秀の前に自身達が織田家の宗家であることを示す意味で義統(よしむね)を擁したと思われる。

守護・義統(よしむね)は常に信友に操られるだけであったらしく、やがて傀儡としての自身の扱いに不満を見せはじめ、両者の対立が深まって行った。

千五百五十四年(天文二十三年)、尾張守護・斯波義統(しばよしむね)は守護代家(大和守家)の織田達勝と家督を継いだ織田信友に傀儡的存在に置かれた状況下に在った。

守護代大和守家・織田信友が弾正忠家の織田信長を謀殺する計画を企てた時、義統(よしむね)は信長にその計画を密告して自身の助けを求めた。

しかし、その信長への密告が信友に知られる事と成る。

信友は激怒し、義統嫡男・義銀(よしかね)が主な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代・坂井大膳と共に守護所に攻め入り、義統(よしむね)を自害に追い込んだ。

この事件は、嫡男・義銀(よしかね)が義統(よしむね)の仇討ちの救いを、織田信長に求めた事により信長の手により果たされる。

信長にとって織田信友は名目上の主君であり、戦国大名として台頭していた信長にとっては主従関係と言う縛りゆえに眼の上の瘤であった。

しかし都合が良い事に、信友が守護・義統を討った事で、信長は主家を討った謀反人として信友を葬る事ができた。

尾張下四郡を支配する織田大和守家を討った信長は、上四郡守護代家・伊勢守家をも討ち、やがて傀儡守護・斯波義銀(よしかね)をも追放した。

これで尾張は、守護・守護代勢力の大半が消え去り、信長の手によって統一されて行く事となる。

織田弾正忠家で起きた織田信長とその弟・織田信行(信勝)との家督争い、稲生の戦い(いのうのたたかい)の二年前の事である。

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by mmcjiyodan | 2012-11-24 18:29  

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