信長嫡男・織田信忠(おだのぶただ・美濃国主)

織田信長の嫡男・織田信忠と次男・織田信雄は、異説もあるが定説では「生駒吉乃(いこまきつの)の胎による」と伝えられている。

織田信長の継嗣(世継ぎ)・織田信忠(おだのぶただ)は、けして凡将では無く父親譲りの名将だった。

千五百七十二年(元亀三年)に信忠(のぶただ)は十五歳で元服し、江北攻め(越前朝倉と江北浅井侵攻)で初陣して以来、信長に従って石山合戦伊勢長島攻め長篠の戦いと各地を転戦する。

同千五百七十二年(元亀三年)、武田信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して動き出す。

信玄は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、次いで織田領への侵攻を開始しする。

千五百七十五年(天正三年)、信忠(のぶただ)は武田方の岩村城攻めの総大将として出陣、以後、一連の武田氏との戦いに於いて大いに武名を上げ、信長世子の地位を確立する。

千五百七十六年(天正四年)、信忠(のぶただ)は父・信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、岐阜城主となった。

翌千五百七十七年(天正五年)二月に信忠(のぶただ)は雑賀攻めで中野城を落とし、三月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。

八月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を率い、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした。

信忠(のぶただ)はその功績により従三位・左近衛権中将に叙任され、この頃より信長に代わり総帥として諸将を率いるようになる。

千五百八十二年(天正十年)本能寺の変の時点では、信忠(のぶただ)は二十六歳になっていた。

この年、織田勢は武田信玄亡き後の武田領に攻め入り、武田勝頼(たけだかつより)を天目山に滅ぼしている。

信長・信忠親子は、正に覇者に成らんとする織田家の当主と世継ぎである。

本来なら、親子同時に攻められるのを嫌って別々の土地に居るのだが、信長は畿内・王城の地に絶対の結界を構築して油断していた。

それに織田王朝の「新帝国の誕生」宣言を目論んでいた事から、この時ばかりは継嗣・信忠(のぶただ)にはその宣言時に、皇帝の息子として横に列席させる必要が在った。

つまり必然が重なって、信忠(のぶただ)は京都の妙覚寺に居た。

この時、同じ京都の妙覚寺に投宿していた信長の嫡男・織田信忠(当時美濃国主)、次男・織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ・北畠信意/きたばたけのぶおき)、信長弟・長益(後の織田遊楽斉)の所にも信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した知らせが届く。

本能寺強襲の知らせを受けた信長嫡男・織田信忠は本能寺へ救援に向かう。

だが途中で父・信長自害の知らせを受け、光秀軍が自分に向かったと知って信忠はこれを迎撃すべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代・村井貞勝前田玄以(まえだげんい)らと共に皇太子の居宅である二条新御所(二条城の前身)に移動する。

信忠は二条新御所から誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し善戦を見せるも、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると適わぬと判断して自害してはてた。

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by mmcjiyodan | 2012-12-02 17:32 | Comments(0)  

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