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武田勝頼(たけだかつより)

武田勝頼(たけだかつより) / 諏訪勝頼(すわかつより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名で、平安時代から続く甲斐源氏流・武田氏の最後の当主である。

千五百四十六年(天文十五年)、勝頼(かつより)は武田信玄(晴信)の四男として生まれる。

母は信虎後期から晴信初期に同盟関係であった信濃国諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人と伝えられるが実名は不明である。

武田信玄(しんげん/晴信)と諏訪御料人の間に勝頼(かつより)が誕生した経緯は、信玄(しんげん/晴信)の信濃国諏訪攻略にある。

武田氏は勝頼(かつより)の祖父にあたる信虎(のぶとら)期には諏訪氏と同盟関係にあった。

だが信玄(しんげん/晴信)は、千五百四十一年(天文十年)六月に父・信虎を追放する形で家督を相続する。
この変事により諏訪氏とは手切となり、千五百四十二年(天文十一年)六月には諏訪侵攻を行い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡する。

晴信は諏訪残党の反乱対策として頼重の娘・諏訪御料人を武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ側室として迎え、千五百四十六年(天文十五年)に勝頼(かつより)が誕生する。

勝頼(かつより)は当初、諏訪氏を継いだ為に諏訪四郎勝頼、或るいは信濃国伊那谷の高遠城主で在った為、伊奈四郎勝頼とも言う。

父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった為、勝頼(かつより)に正式な官位はない。
信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれた勝頼(かつより)は、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。

その後武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると勝頼(かつより)は継嗣となり、千五百七十三年(元亀四年)には信玄の死により二十七歳で家督を相続する。

二年後、勝頼(かつより)は父・信玄の領国拡大方針を継承するが、千五百七十五年(天正三年)長篠の戦いに於いて織田・徳川連合軍に大敗する。

長篠の戦いに大敗した事を契機に勝頼(かつより)は領国の動揺を招き、その後の上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟で領国の再建を図る。

また、勝頼(かつより)は織田氏との和睦(甲江和与)も模索し、甲斐本国では新府城への府中移転により領国維持を図る。

しかし信長は朝廷に働きかけ、正親町天皇に勝頼を「東夷(=朝敵)」と認めさせ、石清水八幡宮などの有力寺社で祈祷が行われるなど、武田氏討伐の大義名分を得ていた。

武田氏の朝敵指名を得た織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)により、武田家中は混乱し有力武将が離反して行った。

千五百八十二年(天正十年)三月、勝頼(かつより)は嫡男・信勝とともに天目山で自害し、平安時代から四百五十年続く甲斐武田氏は(戦国大名家としては)滅亡した。

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by mmcjiyodan | 2012-12-04 20:03  

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