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大村益次郎(おおむらますじろう)〔一〕

長州藩からはもう一人、長州征討戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった医師・西洋学者・兵学者の大村益次郎(おおむらますじろう)が出た。

また大村益次郎(おおむらますじろう)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。

益次郎(ますじろう)は、周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじむら)字大村に、村医兼農業の村田孝益(むらたたかます)と妻うめの長男として生まれる。

若い頃の大村益次郎(おおむらますじろう)は父が使う村田姓で幼名は村田宗太郎、通称は村田蔵六(良庵)を名乗って居た。


千八百四十二年(天保十三年)、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は十八歳で防府の蘭法医・梅田幽斎(うめだゆうさい)に医学や蘭学を学ぶ。

翌千八百四十三年四月、梅田の勧めで豊後国日田に向かい、蘭学者・高野長英らが学んだ広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾・咸宜園(かんぎえん)に入る。

村田蔵六(むらたぞうろく)は塾咸宜園(かんぎえん)で二年間、漢籍、算術、習字など学び帰郷して梅田門下に復帰する。

その後、千八百四十六年(弘化三年)、大坂に出て医師・蘭学者の緒方洪庵(おがたこうあん)の私塾・適塾(てきじゅく)で学ぶ。

適塾在籍の間に、蔵六(ぞうろく)は長崎の奥山静叔の下で一年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。

千八百五十年(嘉永三年)、村田蔵六(むらたぞうろく)は父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵(むらたりょうあん)と名乗る。

三年後の千八百五十三年(嘉永六年)、蔵六(ぞうろく/良庵)はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねる目的で伊予国宇和島へ行く。

宇和島に到着した蔵六(ぞうろく/良庵)は、二宮や藩の顧問格であった僧・晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士・大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。

ちょうどその時代は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代で、蔵六(ぞうろく/良庵)は伊予宇和島藩の要請で出仕する。

村田蔵六(むらたぞうろく)は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。

千八百五十四年(安政元年)から翌千八百五十五年(安政二年)には、蔵六(ぞうろく)は長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。

長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。

ズッと後日談だが、後年、益次郎(ますじろう/村田蔵六/むらたぞうろく)が京都で襲撃され重傷を負った後、蘭医ボードウィンの治療方針の下でイネは益次郎(ますじろう)を看護し、その最期を看取っている。


千八百五十六年(安政三年)四月、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は江戸に出、十一月、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える。

同年同月中旬、蔵六(ぞうろく/良庵)は宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となる。

教授方手伝としては、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米二十人扶持・年給二十両を支給される。

翌千八百五十七年(安政四年)十一月、蔵六(ぞうろく/良庵)は築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。

千八百五十八年(安政五年)三月、蔵六(ぞうろく/良庵)は長州藩上屋敷に於いて開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行う。

この蘭書会読会於いて、蔵六(ぞうろく/良庵)は桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。

千八百六十年(万延元年)、桂小五郎との知遇を得たを機に長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、年米二十五俵を扶持として支給され、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。

元々、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)の生家は長州であり、長州藩の出仕要請は「願ったり適ったり」だった。

千八百六十一年(文久元年)正月、蔵六(ぞうろく/良庵)は一時帰藩し西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。

二年後の千八百六十三年(文久三年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は萩へ帰国し、手当防御事務用掛に任命される。

翌千八百六十四年(元治元年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行う。

また、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。

村田蔵六(むらたぞうろく)は語学力を買われ、同千八百六十四年八月には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。

同年外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の年末には、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。

長州藩では千八百六十四年(元治元年)の第一次長州征討の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握った。

所が、千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。

同千八百六十五年、蔵六(ぞうろく/良庵)は藩の軍艦壬戌丸売却の為、本人のメモのみで仔細不明だが、秘密裏に上海へ渡っている。

高杉晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、村田蔵六(むらたぞうろく)にその指導を要請する。

桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、村田蔵六(むらたぞうろく)は馬廻役譜代百石取の上士となり、藩命により村田姓から大村姓に改名、大村益次郎永敏とする。

「大村」は故郷の鋳銭司村字大村(すぜんじむらあざおおむら)の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の一字をそれぞれとっている。


千八百六十六年(慶応二年)、幕府は第二次長州征討を号令、騒然とした中、藩の明倫館が再開され、大村益次郎(おおむらますじろう)も深く藩政に関わる事に成る。

桂小五郎は同千八百六十六年五月に藩の指導権を握り、大村益次郎、高杉晋作、伊藤博文井上聞多(井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。

長州藩は、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺を購入し幕府軍に備える。

千八百六十六年六月に戦闘が開始されるも、長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦し、益次郎(ますじろう)は長州藩兵を指揮し勝利の立役者と成った。

大村益次郎(おおむらますじろう)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2012-12-23 00:10  

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