広沢真臣(ひろさわさねおみ)

広沢真臣(ひろさわさねおみ)は明治帝の信頼が厚く、復古功臣として木戸孝允(桂小五郎)西郷隆盛大久保利通らと同格の「維新の十傑」に数えられた人物である。

そんな真臣(さねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

つまり良く在る話だが、作家に拠る「面白可笑(おもしろおか)しい虚構」が混ざって評判をあげる現象が娯楽・英雄物語の虚(きょ)である。

真臣(さねおみ)の幼名は柏村季之進で、千八百三十四年(天保四年) に長州藩士・柏村安利の四男として萩・土原村(ひじわらむら/現・萩市)に誕生する。

千八百四十四年(弘化元年)十二月、柏村季之進は十歳で同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾(はたのきんご)と称した。

金吾(きんご)は長州藩士として藩校・明倫館に学び、千八百五十三年(嘉永六年)の黒船来航時には十九歳で大森台場警衛の為に江戸に出張している。

千八百五十九年(安政六年)藩の軍政改革に参画するなど、金吾(きんご)は尊攘派として活躍した。

以後、藩世子・毛利定広と共に入洛し、桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(玄瑞)の下、京都詰の事務方として尽力した。

千八百六十四年(元治元年)長州藩禁門の変下関戦争、第一次征長と厄続きで藩論も主戦派(主に正義派)と恭順派(主に俗論派)で混乱していた。

藩内の政権闘争で主戦派が恭順派に敗れた結果、金吾(きんご)も投獄されたものの、正義派でなく中間派だった為に処刑を免れた。

翌千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作や伊藤俊輔(博文)山縣狂介(有朋)ら正義派がクーデターによって藩の実権を掌握する。

このクーデターで、中間派であった波多野金吾(はたのきんご)が政務役として藩政に参加する事となる。

同千八百六十五年(慶応元年)四月四日、藩命によって波多野金吾(はたのきんご)は広沢藤右衛門と改名し、更に翌月の五月六日には広沢兵助と改名した。

因(ちなみ)に改名した広沢(廣沢)姓の由来は、佐伯流・波多野氏の祖が相模国秦野(波多野荘)の地に住して「広沢郷を領した」に依るとされる。


広沢兵助(へいすけ/真臣)は千八百六十六年(慶応二年)八月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉する。

その講和交渉の傍ら、兵助(へいすけ)は坂本龍馬薩摩藩の五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸孝允の代理人かつ同僚として奔走する。

千八百六十七年(慶応三年)十月には、兵助(へいすけ/真臣)は大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。


維新政府の発足後、兵助(へいすけ/真臣)は参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任する。

戊辰戦争では、米沢藩の宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸孝允と同様に寛典論者であった。

千八百六十九年(明治二年)、兵助(へいすけ/真臣)は復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄千八百石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

千八百七十一年(明治四年)正月、東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、兵助(へいすけ/真臣)は刺客の襲撃によって暗殺された。

その暗殺犯は、木戸孝允らの懸命の捜査にも拘わらず未だ謎の未解決事件である。

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by mmcjiyodan | 2012-12-24 00:03 | Comments(0)  

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