福沢諭吉(ふくざわゆきち)〔一〕
諭吉(ゆきち)は、最初中津藩士のち幕府御家人、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者として幕末から明治を生きた。
福澤諭吉(ふくざわゆきち)は慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。
諭吉(ゆきち)と言う名の由来は、儒学者でもあった父・百助が「上諭条例(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)」を手に入れた夜に諭吉(ゆきち)が生まれた事による。
父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に中津藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった。
儒学者・百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園(なかむらりつえん)がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。
百助は中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名を成す事もできずにこの世を去った。
その為息子である諭吉(ゆきち)は、後に福翁自伝で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。
千八百三十六年(天保六年)、父・百助の死去により中村栗園(なかむらりつえん)に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現・大分県中津市)で過ごす。
諭吉(ゆきち)は、親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うと言う価値観はもっていなかった。
お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、諭吉(ゆきち)は悪童まがいの溌剌とした子供だったようだ
しかし諭吉(ゆきち)は、刀剣細工や畳の表替え、障子の張替えを熟(こ)なすなど内職に長けた子供であった。
その諭吉(ゆきち)は、五歳頃から藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。
初め読書嫌いであったが、十四~五歳になってから近所で自分だけ勉強をしないと言うのも世間体が悪いと言う事で、諭吉(ゆきち)は勉学を始める。
しかし始めてみると直(す)ぐに実力をつけ、以後諭吉(ゆきち)は様々な漢書を読み漁り、漢籍を修める。
八歳になると、諭吉(ゆきち)は兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。
諭吉(ゆきち)は「論語」、「孟子」、「詩経」、「書経」は勿論、「史記」、「左伝」、「老子」、「荘子」に及び、特に「左伝」は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記した。
この頃に諭吉(ゆきち)は、先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まる様になっていた。
また諭吉(ゆきち)は、学問の傍ら立身新流の居合術を習得した。
諭吉(ゆきち)の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉(ゆきち)の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。
従って、諭吉(ゆきち)の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまで遡る事が出来る。
のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。
幕末の時勢の中、千八百五十八年(安政五年)には無役の御家人(旗本)で石高わずか四十石の勝安房守(号は海舟)らが登用される。
同じ頃、江戸居留守役・岡見清熙の差出で諭吉(ゆきち)にも中津藩から江戸出府を命じられる。
諭吉(ゆきち)は江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となる為に、吉川正雄(岡本周吉、後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。
諭吉(ゆきち)達師弟は、築地鉄砲洲に在った奥平家の藩邸(中屋敷)に住み込み、そこを蘭学塾「一小家塾(いちしょうかじゅく)」として蘭学を教えた。
まもなく足立寛、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)の「鳩居堂」から移って来た佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が「一小家塾」に入塾する。
この蘭学塾「一小家塾(いちしょうかじゅく)」が後の学校法人・慶應義塾の基礎となった為、この年が慶應義塾創立の年とされている。
【福沢諭吉(ふくざわゆきち)〔二〕】に続く。
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