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満良親王(みつながしんのう)

後醍醐天皇の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)は、千三百三十八年(延元三年/暦応元年九月に征西将軍宮・懐良親王(かねながしんのう)と伴に伊勢大湊から出港して土佐国に入る。

新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南朝軍を従えて、千三百四十年(延元五年/暦応三年)正月、四国高知の武将・大高坂松王丸(おおたかさかまつおうまる)の救援の為に潮江山に布陣する。

満良親王(みつながしんのう)の宮方軍勢は、北朝方・細川定禅(ほそかわじょうぜん)の要請を受けた四国北朝軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。

南北朝時代の周防国守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。

しかし大内弘世(おおうちひろよ)は、その後北朝・足利方に寝返った為満良親王(みつながしんのう)は千三百四十二年(興国三年/康永元年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びその後の消息は不詳とされる。

満良親王(みつながしんのう)のその後の消息は不詳だが、遠江国・方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選(むもんげんせん)や、千三百五十一年頃に周防国で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう)が、後身であるとするなど多説がある。


後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と懐良親王(かねながしんのう)の継嗣・良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見される。

この誤解の為に、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。

尚、良光王(ながみつおう)を親王と記載するには、懐良親王(かねながしんのう)が幼くして九州制圧に任じ、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いて居た為、独立した九州王朝だったと見る状況が在ったからである。

懐良親王(かねながしんのう)が九州に渡り時を経ると、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、九州に於ける懐良親王(かねながしんのう)は幾多の戦いを勝ち抜いてさながら九州王国並みの強固な地盤を築いている。

そうした懐良親王(かねながしんのう)の勢力を認めて、明の太祖(洪武帝)がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良(かねなが)に宛て送り来る。

懐良親王(かねながしんのう)は、始めは断るものの、後に「日本国王・良懐(ながかね)」として冊封を受け、明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。

この名を前後させ「日本国王・良懐」として明の太祖(洪武帝)依りの冊封を受けた事を根拠に、その第一皇子を同様に光良(みつなが)から良光(ながみつ)として親王を名乗った可能性を感じる。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-03-11 11:52  

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