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加藤嘉明(かとうよしあき)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武将として会津藩四十万石に昇りつめた大名・加藤嘉明(かとうよしあき)は、晩年に嘉明(よしあき)を名乗るまで、繁勝(しげかつ)を名乗っていた。

繁勝(しげかつ)は千五百六十三年(永禄六年)、三河国の松平家康(徳川家康)の家臣である加藤教明(岸教明)の長男として生まれる。

生まれた年の三河一向一揆で父・教明(岸教明)が一揆側に属して家康に背き、流浪の身となって繁勝(しげかつ/嘉明)も放浪する。

やがて尾張国で、加藤景泰(加藤光泰の父)の推挙を受けて羽柴秀吉(豊臣秀吉)に見出され、その小姓として仕えるようになる。

織田信長死後の千五百八十三年(天正11年)には、秀吉と織田家筆頭家老の柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いで、繁勝(しげかつ/嘉明)は福島正則加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。

秀吉は信長の統一政策を継承し、繁勝(しげかつ/嘉明)は千五百八十五年(天正十三年)の四国攻め、千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐、千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐などに水軍を率いて参加した。

繁勝(しげかつ/嘉明)はこの間の武功から、千五百八十六年(天正十四年)には淡路国志智に於いて一万五千石を与えられ、大名に列している。

千五百九十二年(文禄元年)からの文禄の役では、繁勝(しげかつ/嘉明)は水軍を統率して李舜臣指揮の朝鮮水軍と戦った。

その功績により繁勝(しげかつ/嘉明)は、千五百九十五年(文禄四年)には、伊予国正木(愛媛県松前町)に六万石を与えられている。

その後の繁勝(しげかつ/嘉明)は、慶長の役に於いては、漆川梁海戦で元均率いる朝鮮水軍を壊滅させ、蔚山城の戦いでは明・朝鮮軍の包囲で篭城し、食糧の欠乏に苦しんだ蔚山城(倭城)の清正を救援する武功も立て、十万石に加増されている。


千五百九十八年(慶長三年)八月に秀吉が死去すると繁勝(しげかつ/嘉明)は帰国し、豊臣政権における五奉行の石田三成と五大老の徳川家康の争いでは家康方に属する。

千五百九十九年(慶長四年)、五大老の一人前田利家の死後に加藤清正らが三成殺害を企てた暗殺未遂事件事件には、繁勝(しげかつ/嘉明)も襲撃メンバーに参加している。

千六百年(慶長五年)、家康が会津の上杉景勝の謀反を主張して討伐を発令すると、繁勝(しげかつ/嘉明)も従軍する。

家康らの大坂留守中に三成らが挙兵し、引き返した東軍(徳川方)と美濃で衝突して関ヶ原の戦いに至ると、繁勝(しげかつ/嘉明)は前哨戦である岐阜城攻めや大垣城攻めに於いて戦い、本戦では石田三成の軍勢と戦って武功を挙げた。

留守中の伊予本国(伊予方面関ヶ原の戦い)でも、加藤家家臣の佃十成が毛利輝元の策動を受けた侵攻軍を撃退している。

その功績により、戦後、繁勝(しげかつ/嘉明)は伊予松山二十万石に加増移封され、完成は蒲生忠知の城主時代になるが、松山城の建築を開始している。


千六百十四年(慶長十九年)に起こった豊臣氏との戦いである大坂冬の陣では、繁勝(しげかつ/嘉明)は豊臣恩顧の大名であった為、家康に危険視される事を恐れて江戸城留守居を務める。

翌千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、繁勝(しげかつ/嘉明)は二代将軍・徳川秀忠に従って参陣した。

四年後の千六百十九年に起こった福島正則の改易で、繁勝(しげかつ/嘉明)は広島城の接収を行った。

千六百二十七年(寛永四年)会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減転封された後を受けて、嘉明(よしあき)は会津藩四十万石に加増移封された。

大封を得た加藤家だが、嘉明の死後、家督を継いだ嫡男・明成が暗愚な為に家中で堀主水立ち退き事件を起こす。

江戸幕府の介入を招き、減封の上嗣子を立てて家名存続との裁定となるも、明成が息は無いと頑固に主張した為に嘉明(よしあき)が興した加藤家は改易されるに到る。

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by mmcjiyodan | 2013-05-12 11:23  

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