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佐竹義宣(さたけよしのぶ)

佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、佐竹氏第十八代当主・佐竹義重(さたけよししげ)の長男で母は伊達晴宗の娘、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。

佐竹(右京大夫)義宣は、佐竹氏としては第十九代当主に当たり、伊達政宗は母方の従兄にあたる戦国時代から江戸時代前期の武将・大名である。


義宣(よしのぶ)は千五百七十年(元亀元年)七月十六日、常陸国・太田城(現・茨城県常陸太田市)に生まれた。

義宣(よしのぶ)が誕生した頃、父・義重(よししげ)は那須氏を攻めていたが、千五百七十二年(元亀三年)、那須氏と和睦した。

この和睦は、当時三歳の義宣(よしのぶ)に那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎える事等が条件となっていた。

この頃の佐竹氏は南方を抑える為、千五百八十四年(天正十二年)に後北条氏と和議を結んでいた。

しかし北方では義重(よししげ)の次男であり義宣(よしのぶ)の弟である蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城を伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。

佐竹氏は伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。


千五百八十六年(天正十四年)から千五百九十年(天正十八年)の間に、義宣(よしのぶ)は、父・義重(よししげ)の隠居によって家督を相続している。

義宣(よしのぶ)は、千五百八十九年(天正十七年)十一月二十八日に秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受ける。

しかし、義宣(よしのぶ)は南郷に於いて伊達政宗と対峙している最中であった為、直ちに命令に従う事はできなかった。

義宣(よしのぶ)は、秀吉自らが京を出立したと言う知らせを受けて、従兄弟で盟友・宇都宮国綱(下野国戦国大名)に対応を相談した。

千五百九十年(天正十八年)五月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた一万余の軍勢を率いて小田原へ向かう。

義宣(よしのぶ)は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、千五百九十年(天正十八年)五月二十七日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった。

秀吉の下に参陣した義宣(よしのぶ)は、千五百九十年(天正十八年)六月、石田三成指揮の下、映画・「のぼうの城のモデルである忍城」を攻めた。

この忍城攻めは水攻めで、義宣(よしのぶ)は堤防構築に従事している。


小田原の役後の義宣(よしのぶ)は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められる。

奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計二十一万貫余(三十五万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた。

これにより佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、徳川家康や前田利家島津義久毛利輝元上杉景勝と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれた。

以後、義宣は秀吉の権威を背景に江戸氏・大掾氏を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。

義宣(よしのぶ)は、朱印状による所領安堵の直後から、常陸国全域に支配を及ぼすことを企図し、まずは、居城を太田城から水戸城へ移すこととした。

当時の水戸城主は、小田原征伐の際に参陣しなかった江戸重通であった。

義宣(よしのぶ)は上洛中であったので、水戸城攻略は父・義重(よししげ)が行う。

千五百九十年(天正十八年)十二月二十日、義重(よししげ)は水戸城を攻め落とし、同月二十二日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹(だいじょうきよもと)を攻めて大掾氏(だいじょううじ)を滅亡させている。

千五百九十一年(天正十九年)二月九日、義宣(よしのぶ)は京から帰国する。

義宣(よしのぶ)は鹿島郡及び行方郡に散在していた大掾氏(だいじょううじ)配下の国人達、所謂(いわゆる)「南方三十三館」の国人衆を謀殺して常陸国全域の支配権確立に成功する。

千五百九十一年(天正十九年)三月二十一日、義宣(よしのぶ)は水戸城に移り、竹氏の一門・佐竹義久(さたけよしひさ)に水戸城の整備拡張を命じた。

水戸城に本拠を移した直後の六月、豊臣政権は義宣(よしのぶ)に奥州出兵二万五千人という非常に重い軍役を命じ、この動員は同年十月まで約四ヶ月間続いた。

奥州出兵の最中の九月、今度は秀吉が唐入り(中華侵攻)の為各国大名に朝鮮出兵を命じ、義宣(よしのぶ)も、五千人の出兵を命じられる。

この軍役は、千五百九十二年(文禄元年)一月から翌千五百九十三年(文禄二年)閏九月まで約二十一ヶ月間続く。

当初の佐竹氏への五千人の軍役は途中で三千人に軽んぜられ、「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された。


義宣(よしのぶ)は、千五百九十二年(文禄元年)一月十日、水戸を出発し、同年四月二十一日、名護屋城に到着する。

翌千五百九十三年(文禄二年)五月二十三日、義宣(よしのぶ)は朝鮮へ渡るよう命じられる。

その翌月には、先陣の佐竹義久が千四百四十人を率いて名護屋を出航する。

本隊が直ぐに追う筈だったが、七月七日、義宣(よしのぶ)に対して渡海を見合わせるよう連絡があったので、義宣自身が朝鮮に渡る事はなかった。

その為義宣(よしのぶ)は、唐入りに際して整備した軍役体制を活用して水戸城の普請を進め、千五百九十四年(文禄三年)、普請は一応の完成を見た。

一方、千五百九十四年(文禄三年)一月十九日、義宣(よしのぶ)は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた。

千五百九十五年(文禄四年)六月十九日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定された事を受け、義宣(よしのぶ)は、五十四万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領する。

また、義宣(よしのぶ)は、千五百九十五年(文禄四年)七月十六日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化する。


千五百九十七年(慶長二年)十月、佐竹氏の与力大名であり義宣(よしのぶ)の従兄弟である宇都宮国綱が改易される。

これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって処分を免れ、大きな借りができた。

その借りを返す時は、程なく訪れる。

千五百九十九年(慶長四年)閏三月三日、前田利家が死去した事を契機として、加藤清正福島正則加藤嘉明浅野幸長黒田長政細川忠興及び脇坂安治は、石田三成の屋敷を襲撃する。

この知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせている。

この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。

これに対し、義宣は、「三成は公命に背いた事もないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。この事を家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ」と応えた。

これを受けて茶の師・古田重然(古田織部)は、細川忠興に取りなしを依頼した。

家康は細川忠興からこの話を聞き、「義宣(よしのぶ)身命に賭けて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えた。


千六百年(慶長五年)五月三日、徳川家康は会津征伐(上杉討伐)の為に東国の諸大名を京都に招集する。

義宣(よしのぶ)もこの招集に応じ、同年五月中旬、京都に上洛した。

同年六月六日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣(よしのぶ)は仙道口を任される事となり、水戸へ帰る。


千六百年(慶長五年)七月二十四日、小山に到着した徳川家康は、水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた際、家康の使者は人質を上洛させるよう要求する。

義宣(よしのぶ)は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断っている。

この時期の佐竹氏の動向は、東軍に付くとも西軍に付くとも言えないもので家康は佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣(よしのぶ)の動向を確認した。


千六百年(慶長五年)七月十九日頃、義宣(よしのぶ)は上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようで、自軍の赤館以北への進軍を差し止めている。

七月二十五日に成って、義宣(よしのぶ)は突如として兵を引き水戸城へ引き上げる。

義宣(よしのぶ)は家康に対し、重臣・小貫頼久(秀郷流小野崎系)を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させる。

また、上田城に篭る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、一族の重鎮・佐竹義久に率いさせた三百騎を送った。


関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣(よしのぶ)は徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。

義宣(よしのぶ)は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのを見て、佐竹氏に累が及ぶ事を恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かう。

途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に会って謝罪及び家名存続の懇願をした。


関ヶ原の戦いの翌々年に当たる千六百二年(慶長七年)三月、義宣(よしのぶ)は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見する。

その謁見直後の同年五月、義宣(よしのぶ)は家康から転封先不明転封後の石高も不明の国替えの命令を受けた。

従って義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与える事はできないであろう事や、五十石~百石取りの給人については転封先に連れて行かない事などを書き述べている。


数日後転封先が秋田に決定し、常陸水戸五十四万石から出羽秋田二十万石(出羽久保田藩)への減封となるも、正式な石高が決定されたのは久保田藩二代藩主・佐竹義隆の代になってからである。

佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説ある。

この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させる事で島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある。

また、佐竹氏が減転封された理由としては、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説もある。

義宣(よしのぶ)は、秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して新たな政策の実施と人材登用を可能にした。


千六百十四年(慶長十九年)、徳川家康が名実伴に天下人となる為に豊臣家を攻める大坂の役が起こり、義宣(よしのぶ)は徳川方として参陣する。

義宣(よしのぶ)は参勤の為、千六百十四年(慶長十九年)九月二十五日に久保田城を出立していたが、その途中十月七日に大阪への出陣命令を受ける。

これを受けて佐竹軍は、十月十五日以降に順次久保田城を出発し、江戸に居た義宣(よしのぶ)は軍勢と合流し、同月二十四日に江戸を出発した。

義宣(よしのぶ)が大阪へ到着したのは、同千六百十四年年十一月十七日である。

義宣(よしのぶ)は玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢と戦闘、新規に召抱えた重臣・渋江政光を失っている。

この戦いでの佐竹軍の勝利は戦況に大きな影響を与えたので、幕府に於ける佐竹軍の評価は高まった。

大阪の役(冬の陣)に於いて幕府から感状を受けたのは僅か十二名で、内五名を佐竹家中の者が占めた武功だった。


関ヶ原の戦いに遡る話しの後日談だが、佐竹家が様子見で参戦しなかった罪を家康に問われ、常陸水戸五十四万石から出羽秋田二十万石(出羽久保田藩)への減封となった。

その減封を強力に主張した当時の幕府中枢・本多正信・正純親子の内、本多正純が宇都宮城釣天井事件で失脚した。

幕府は本多正純の身柄を出羽横手への流罪とし、正純に恨みがある佐竹氏に預ける露骨な仕置きをした。

正純は流人として、佐竹家で十五年間を過ごした。

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by mmcjiyodan | 2013-08-28 15:17  

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