谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)は、文豪と評される小説家である。

潤一郎(じゅんいちろう)は谷崎倉五郎、関の長男として東京府東京市日本橋区に生まれたが、祖父・谷崎久右衛門の死後事業がうまくいかず、家の身代が傾いて行った。

その為潤一郎(じゅんいちろう)は、上級学校への進学も危ぶまれるも、教師らの助言により住込みの家庭教師をしながら府立一中に入学する。

千九百二年(明治三十五年)九月、潤一郎(じゅんいちろう)十六歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし第二学年から第三学年への編入試験を受けるように勧められる。

それに潤一郎(じゅんいちろう)は合格し、さらに学年トップの成績をとった。

本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた。

卒業後、潤一郎(じゅんいちろう)は旧制一高に合格し、一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した。

千九百八年(明治四十一年)、一高卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進むが後に学費未納により中退となる。

在学中の千九百九年に、潤一郎(じゅんいちろう)は和辻哲郎らと「第二次・新思潮」を創刊し、処女作の戯曲「誕生」や小説「刺青」を発表する。


早くから永井荷風(ながいかふう)によって「三田文学」誌上で激賞され、潤一郎(じゅんいちろう)は文壇に於いて新進作家としての地歩を固めた。

以後「少年」、「秘密」などの諸作を書きつぎ、自然主義全盛時代に在って物語の筋を重視した反自然主義的な作風を貫いた。

大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、江戸川乱歩(えどがわらんぽ)にも影響を与えたといわれる探偵小説の分野にも新境地を見出した。

また、潤一郎(じゅんいちろう)は映画に深い関心を示し、自身の表現に於いて新しい試みに積極的な意欲を見せた。

関東大震災の後、潤一郎(じゅんいちろう)は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。

長編「痴人の愛」では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。

続けて潤一郎(じゅんいちろう)は、「卍」、「蓼喰ふ虫」、「春琴抄」、「武州公秘話」などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けて行く。

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の女性遍歴は相当なもので、性癖も変態と指摘されるが、彼の作品はモデルを必要とし、その辺りに潤一郎(じゅんいちろう)の作品が高評価と結び付いて居そうである。

こうした美意識の達者としての潤一郎(じゅんいちろう)の思想は「文章読本」と「陰翳禮讚」の評論によって知られる。

この間、佐藤春夫(さとうはるお)との「細君譲渡事件」や二度目の結婚・離婚を経て、千九百三十五年(昭和十年)に森田松子と三度目の結婚して私生活も充実する。

戦争中、潤一郎(じゅんいちろう)は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作「細雪」に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する。

同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人がモデルとなっている。


戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ「源氏物語」の現代語訳も中断を強いられた。

しかし、晩年の潤一郎(じゅんいちろう)は迫りくる老いと闘いながら、執筆活動を再開する。

「過酸化マンガン水の夢」を皮切りに、「鍵」、「瘋癲老人日記」と言った傑作を発表する。

ノーベル文学賞の候補には、千九百五十八年、千九百六十年、千九百六十一年、千九百六十二年と四回にわたって選ばれ、特に千九百六十年には最終候補の五人の中に残った。

潤一郎(じゅんいちろう)最晩年の千九百六十四年(昭和三十九年)には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出され、執筆活動を再開する。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-09-04 19:32 | Comments(0)  

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