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森鴎外(もりおうがい)〔一〕

主に明治期に小説家、評論家、翻訳家、劇作家として活躍した森鴎外(もりおうがい)は、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)でもある。

森鴎外(もりおうがい)は筆名(ペンネーム)で、本名を森林太郎(もりりんたろう)と言う医学博士・文学博士である。

森林太郎(もりりんたろう)は、千八百六十二年二月十七日(文久二年一月十九日)、石見国鹿足郡津和野町町田村(現島根県)で生まれた。

代々津和野藩主・亀井家の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えている為、久々の跡継ぎ誕生であった。

林太郎(りんたろう)は藩医の嫡男として、幼い頃から論語や孟子やオランダ語などを学び、藩校の養老館では四書五経を復読する。

当時の記録から、林太郎(りんたろう)は九歳で十五歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新に家族と周囲から将来を期待される事になった。

千八百七十二年(明治五年)、林太郎(りんたろう)は廃藩置県等をきっかけに十歳で父と上京する。

東京では、林太郎(りんたろう)は官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得する為、同年十月に私塾の進文学社に入った。

その際に通学の便から、政府高官の親族・西周(にしあまね)の邸宅に一時期寄食した。

翌年、津和野に残る森家の家族も、住居などを売却して故郷を離れた。


千八百七十三年(明治六年)十一月、林太郎(りんたろう)は第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より二歳多く偽り入校試問を受け合格する、

林太郎(りんたろう)は、新入生七十一名と伴に十二歳で第一大学区医学校に入学(後に首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)する。

定員三十人の本科に進むと、ドイツ人教官達の講義を受ける一方で佐藤元長(幕府の医学館教授)に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。

語学に堪能な林太郎(りんたろう)は、後年、執筆に当たってドイツ語など西洋語を用いるとともに、中国の故事などを散りばめた。

さらに、自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記している。

千八百八十一年(明治十四年)七月四日、林太郎(りんたろう)は十九歳で第一大学区医学校本科を卒業する。

林太郎(りんたろう)の卒業席次は八番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。

その進路未定の林太郎(りんたろう)の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に採用するよう長文の熱い推薦状を出している。

また小池正直と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこつると)は、林太郎(りんたろう)に陸軍省入りを勧めていた。

結局のところ林太郎(りんたろう)は、千八百八十一年(明治十四年)十二月十六日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。

妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の林太郎(りんたろう)は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたりしていたと言う。


入省して半年後の千八百八十二年(明治十五年)五月、林太郎(りんたろう)は東京大学医学部卒業の同期八名の中で最初の軍医本部付となる。

林太郎(りんたろう)はプロイセンの陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年三月には「医政全書稿本・全十二巻」を役所に納めた。

千八百八十四年(明治十七年)六月、林太郎(りんたろう)は衛生学を修めるとともにドイツ陸軍の衛生制度を調べる為、ドイツ留学を命じられる。

七月二十八日、林太郎(りんたろう)はドイツ留学の為に明治天皇に拝謁し、賢所に参拝する。

八月二十四日、林太郎(りんたろう)は陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、十月七日にフランスのマルセイユ港に到着し同月十一日に首都ベルリンに入った。


千八百八十四年(明治十七年)十月にドイツ入りした林太郎(りんたろう)は、ライプツィヒ大学で一年、首都ドレスデンに五ヶ月、ミュンヘン大学に一年、ベルリンに一年三ヶ月と医学の研鑽を続けた。

この間に林太郎(りんたろう)は、ライプツィヒ大学ホフマン教授、ザクセン軍医監のウィルヘルム・ロート、同僚軍医のキルケ、原田直次郎や近衛篤麿など名士の子息、北里柴三郎、衛生試験所のコッホ教授などの教えを受けたり親交する。

千八百八十六年九月下旬、カールスルーエで開催される第四回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に、林太郎(りんたろう)は随行し、通訳官として同会議に出席する。

赤十字国際会議を終えた一行は、九月二十八日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加し、十一日間の滞在中、林太郎(りんたろう)は恩師や知人と再会した。


千八百八十八年(明治二十一年)一月、林太郎(りんたろう)は大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞され、十八日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの「戦争論」を講じた。

林太郎(りんたろう)は、留学が一年延長された代わりに地味な隊付勤務を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。

ただ、この林太郎(りんたろう)のベルリン生活は、「舞姫」のモデルとされるドイツ人女性(諸説在り)と出会った都市でもあった。


千八百八十八年(明治二十一年)七月五日、林太郎(りんたろう)は日本代表・石黒忠悳と伴にベルリンを発ち、帰国の途に着いた。

林太郎(りんたろう)はロンドン立ち寄り保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い詩を四首贈り、パリに立ち寄りながら七月二十九日マルセイユ港を後にした。

千八百八十八年(明治二十一年)九月八日、林太郎(りんたろう)一行は横浜港に着き午後に帰京する。

林太郎(りんたろう)は、同日付けで陸軍軍医学舎の教官に補され、十一月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。

帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。

後年、文通をするなど、林太郎(りんたろう)はその女性を生涯忘れる事は無かったとされる。


森林太郎(もりりんたろう)=森鴎外(もりおうがい)は、千八百八十九年(明治二十二年)一月三日の読売新聞の付録に「小説論」を発表する。

さらに同日の読売新聞から、鴎外(おうがい)は弟の三木竹二とともにカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。

その鴎外(おうがい)の翻訳戯曲を高く評価したのが、徳富蘇峰(とくとみそほう)だった。

同年八月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌・「国民之友・夏期文芸付録」に、鴎外(おうがい)は訳詩集・「於母影」を発表する。

その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。

また、鴎外(おうがい)は「於母影」の原稿料五十円をもとに、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌・「しがらみ草紙」を創刊する。

「しがらみ草紙」は、日清戦争の勃発により五十九号で廃刊となっている。


鴎外(おうがい)は欧州ドイツを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作を相次いで発表する。

なかでも、日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせた

この千八百八十九年(明治二十二年)に、鴎外(おうがい)は東京美術学校(現東京藝術大学)の美術解剖学講師を委嘱される。

また、鴎外(おうがい)は千八百九十二年(明治二十五年)九月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された。

この二校の美術講師は、いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱と成って居る。


千八百九十四年(明治二十七年)夏、鴎外(おうがい)は日清戦争勃発により、八月二十九日に東京を離れ、九月二日に広島の宇品港を発った。

翌年の日清講和条約の調印後、五月に近衛師団付の従軍記者・正岡子規(まさおかしき)が帰国の挨拶のため、第二軍兵站部軍医部長の鴎外(おうがい)を訪ねた。

清との戦争が終わったものの、鴎外(おうがい)は日本に割譲された台湾での勤務を命じられていた。

この台湾勤務は、朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる。

鴎外(おうがい)は五月二十二日に宇品港に着き、心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会、その二日後には初代台湾総督の樺山資紀等と伴に台湾に向かった。

鴎外(おうがい)は四か月ほどの台湾勤務を終え、十月四日には帰京している。

千八百九十六年(明治二十九年)一月、「しがらみ草紙」の後を受けて幸田露伴・斎藤緑雨と伴に「めさまし草」を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立つ。

森鴎外(もりおうがい)〔二〕】に続く。

第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2013-09-11 00:23  

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